昨日買ってきた文庫「わたしの藤沢周平」を読んでいる。
6年前にNHKBS2で放送された番組に登場した各会の著名人の話を編集したもの。
藤沢周平の34作品について、39人が読者として、自分に引き寄せて語っている。
「たそがれ清兵衛」について、田原総一朗が語っている内容が面白く読めた。
田原氏は妻が病弱で、癌で2人亡くしているそうだ。
仕事をしながら、妻の看病をした経験から、清兵衛に共感できると言っている。
清兵衛は、藩の上層部から上意討ちを命令されたとき、妻の看護のため迷いに迷う。
私も、少し似た境遇にあるので、そのような読み方もあるのかと、妙に納得した。
私は、例会優先で日程を組んでいるが、突然に入ってきた行事や下見などがあると、
母の介護のため、ショートステイ、デイサービスの日程を組み直す必要に迫られる。
通常は、火、木、土曜日のデイサービス(定期)に、可能な限り日程を合わせている。
だから、上意を断るなど不可能な状況で、清兵衛が即答も即決もできず、
迷う様子には共感できるし、「さもあろう」とうなずける。
生きるか死ぬかの状況に置かれた清兵衛と自分を比較するのはおこがましいが、
そんな読み方ができるところが本の良いところだ。
私の本の読み方は、限りなく自分の都合、今の状況に引きずられながら読んでいる。
ただ、根が単純なので、人間味のある勧善懲悪ものやハッピーエンドものが好きだ。
最後に救いのない本は、やはり辛い。
本日、NHK総合「情報まるごと」で、「昆虫食」、「セミ会」の活動を紹介していた。
蜂の子や、イナゴの佃煮は知っていたが、セミは初めてだった。
素揚げにしたり、佃煮にして食べていたが、「おいしい」という声が紹介される。
昆虫食は、世界的にも広がりがあるとのこと。
「昆虫料理研究会」なるHPをのぞいてみた。
東京新聞」の「筆洗」によると、国連でも、「人口増や気候変動による食糧危機に備え、
栄養価の高い昆虫食に目を向けるよう促しているという。」
日本の捕鯨は、反捕鯨国から批難されているが、反対理由は同一ではないし、
アメリカのように一国内でも、立場を異にする場合がある。
宗教上の理由で、動物(牛、豚など)食を避ける場合もある。
私は、刺身は好きな方であるが、目の前でさばいた場合は食べられない。
「踊り食い」もしない(こわくてできない)。
食は、「習慣」、「文化」であり、違う習慣を持つ側から、批難することは間違いだろう。
ただ、微妙な領域もあると思うのは、「金魚」や「犬」、「猫」などをどうとらえるか。
中国では、「猿」なども食べるという。信憑性は疑わしいという意見もあるし、
中国への偏見を助長する目的で放映されている可能性もあると思われる。
要は、広い地域で行われている「食習慣」なのか、テレビ向けの「作り事」なのか。
その辺りにあると思う。
学校で行くバス旅行(学年、卒業)と運動会、国語以外のほとんどの授業(音楽、体育、
数学、英語、物理、その他)が嫌いだったので、学校はあまり居心地が良くなかった。
なかでも、競わされることが嫌いだった。人が集まるところ、諍い、競争が絶えない。
争いの最悪の形が、戦争だ。
私は、青年の頃まで、戦争になったら逃げると言っていた。
いざとなれば、そんな度胸はないが。
今、問われているような気がする。私は、既に定年後。徴兵はされないだろうが、
集団的自衛権が合法化すれば、若者が兵隊になり、アメリカが攻められれば、
状況によっては、人を殺さなければならない。過去、戦争末期、高齢者も徴兵された。
そうなると人ごとではない。私は、人を殺す覚悟はないし、殺されるのも嫌だ。
「人間の條件」の梶の立場になるかもしれない。あの、人間的苦痛は味わいたくない。
安倍政権がこのまま承認され続け、政局の流れに身を任せれば憲法9条は改悪される。
集団的自衛権も合法化されるだろう。
たぶん、選挙によって、その流れになると思うが、自民党に投票する人は、
人を殺すかもしれないことを、わかっているのだろうか。
その覚悟があって、9条の改悪を承認するのだろうか。
私は、9条改悪反対の政党に1票を投じ、少なくとも、国家の名をもって、
他国人を殺すことは反対だと意思表示したい。
争いごとが嫌いで、臆病者だが、ぎりぎりまで戦争には反対したい。
というのは、恐怖にさらされれば、流れに従ってしまいそうだから。
台風が近づいている。9月1日の元気ウォーク当日に、当地に上陸の予報。
担当者として気が気ではないが、コースは平坦地、危険な場所もないので、実施の予定。
物が飛ぶような強風であれば危険なので、開始前に中止を判断しなければならない。
集合地点の案内図は、全会員に配布した。当日の朝、誘導担当を必要な箇所に配置し、
参加者の便を図る手配をした。
後は、台風の進路に注目するだけだ。
これまでにも、東松山で一日中雨の中を歩いたり、千倉ではみぞれの中を歩いたりした。
高崎観音では、雨のためコース変更になることがたびたびあった。
雨の日は歩きたくないという会員は無理に歩くこともないので、判断は任せるしかない。
当会の設立当初は、雨の日は参加者が激減し、数人だけということがあった。
最近では朝から雨でも、40人ほどの参加者がいて、たくましくなったと思う。
それでも、飲まず食わずのかち歩きなどは、自然に反するし、危険と隣り合わせなので、
当会では実施するつもりはない。
しかし、例会当日猛暑となった場合、歩行中止の判断は難しいと思う。
昼のテレビ番組に「笑っていいとも」というのがある。
私は自宅で見たことはないが、いつものラーメン屋では常時流されている。
私にとって不快極まりない番組で信じがたいが、30年以上放送されているそうだ。
25日、朝日新聞の書評欄に「タモリ論」が取り上げられていた。
書評の最後は、「…一日の真ん中に空いている空虚な中心としてのタモリ。…」
真意は定かでないが、言葉通りにとれば、何の意味も無い番組が、昼の1時間を、
人の精神に空虚な笑いで空白状態をもたらしている状況…と言いたいのだろうか。
まったく同感であるが、前後の文脈からは、バカにしているようでもなかった。
あの手の笑いは私には理解不能だ。
そう言えば、時々でてくるタレントが、「ヒューマントラスト?」のCMをやっている。
あのCMから受ける不快さと、とても似ている。そして、そのタレントが昔演じた
「模倣犯」の主人公の不快さとも通じるものがある。
テレビを見ていてお節介と感じることが、私にはやたらに多い。
バラエティ番組や、特集記事など、総じて説明しすぎ、しゃべりすぎと感じる。
先日の新聞のテレビ欄の解説で、慰霊に関する不思議な体験、慰霊が、
生きる力に結びつく価値などがあることに触れていた。
好内容の番組であるが、記事の最後に、語りによる説明が多過ぎる、
当事者の言葉と、余白で感じさせてほしい、とあった。私は番組を見ていないが、
声質、言い回しに偏り(人気者、あるいは流行の言い方が使われすぎ)があるし、
お節介なしゃべり方というのも感じる番組が多い。
では、適度な語り、番組の進行の仕方はどうあるべきか。個人差、流行への傾き度、
社会的認知度があるので、ここまでという線引きは難しいことはわかる。
私の好みは、昔のNHKのような番組作り、おふざけ、わざとらしさ(脚色)廃止、
などが良いと思うが、大勢ではないのだろう。
放送側が、この辺りが好まれるだろうと、操作をしていなければ良いのだが、
この「操作」、いろいろな場面で後になって暴露されることが多いので困る。
自分の好みでバッサリというわけにはいかないので、電源を切るしか手段がない。
しかし、一人暮らしならともかく、娘などがいると、好みに違いがありすぎ、
部屋を出て行くしかないのはいかがなものか。以前は、ケチをつけていたが、
効果が無いのがやっとわかってきた。
63歳の親父の好みに、「そうだよね」というのも気持ちが悪いと、普通は言うのだろう。
望みを言えば、勝手にチャンネルを変えて、見るものがなければ切ってしまう。
このようなことが、何の抵抗もなくでき、平気でいられる性格であれば良いのだが。
もちろん、似たところもなくはない。アニメ好きは遺伝したようで、好ましく嬉しい。
「となりのトトロ」、「風の谷のナウシカ」、「天空の城ラピュタ」、「MASTERキートン」、
「サイボーグ009」などや、いくつかのドラマは、趣味が一致する。
「火垂るの墓」を嫌いなのは残念だ。娘が4歳の時、大宮の映画館で、
「となりのトトロ」、「火垂るの墓」の2本立て封切りを見た。
私はどちらも感動し、嗚咽を娘に悟られないように苦労した覚えがある。
前回、聴覚障害以外の障害者のウォーキングクラブへの参加について触れた。
以前、精神障害者の作業所でアルバイトをしたことがある。昨年、そこで知り合った人と、
ウォーキングの途中で、久しぶりに会った。「今日は何をしているの」と聞かれたので、
毎日10㎞歩いている頃だったので、そのことを伝え、OOさんも歩かないかと誘った。
返事は”NO”に近いものだったが、次に会ったら又誘ってみようと思った。
車いす使用者の場合であれば、コース上に数段以上の階段、不整地がなく、
トイレの確保さえきちんとすれば、受け入れは可能だ。会員として受け入れる場合、
全て例会でこのようなコースを設定するのは難しい。
6~7割方そのようなコースを設定することは可能だと思う。
視覚障害者では、障害の程度によって違うが、全盲の場合、手引き者を配置すれば良い。
弱視の場合、手引きないし、サポーターがいればこれも参加可能である。
知的障害、学習障害、内臓疾患等々、障害別に対応策は違ってくるが、
組織として対応する姿勢さえ整えられれば、受け入れ可能な例は多いと思う。
いずれの場合も、介助者をどうするか、自前とするのか、会として対応するのか。
会としての対応となると、賛否両論が湧き起こるだろう。
また、コースに制限がでてくることについてどう考えるのか、
受け入れられないという意見が出るかもしれない。
社会的な役割をどう考えるかということが、分岐点になるだろう。
Oさんとの下見は、役員会席上で本人からの申し出があったから、と書いたが、
申し出がなければ実現しなかった。私一人がわかっていればよいと、安易に考えていた。
私の都合を優先していたのは否めない。Oさんと下見の日程を決めるためには、メール、
ファックスを利用する。手話での会話よりもどうしても伝達(やりとり)度が落ちる。
それが多少のブレーキとなり、一人下見を自分の都合に合わせてしてしまった。
似たことは、いくつかの場面で、ある。たとえば、忘年会や新年会などの席上。
カラオケ中心の宴会の取り扱い。聴覚障害者も楽しめるプログラムを考案すべきだが、
手話サークルに在籍していた自分が意見を言わず、聞こえる人優先での宴会を黙認。
難しいのは当たり前だが、少なくとも、役員会の席上で、
ろう者もともに楽しめる宴会を模索すべきと、提案すべきだった。
そういう意味では、昨年の一泊例会での手話コーラスは、良かった。
幹事のSさん、Iさんの発案だったと思うが、一緒に楽しめた。
下の写真は、「瀬戸の花嫁」の手話コーラス
例会で、会長の話や、とくに歩行前の諸注意、休憩地点での参加者への連絡などは、
絶対に欠かせないので、多少雰囲気が悪くなるのは覚悟で、
「私がスタンバイするまで話をしないでほしい」と伝える。
私がその他の役割をしている時、スタッフが急に話し出しても、即、手話通訳ができない。
たまたま、私が手を離せない用事をしていたとき、「連絡」が始まってしまい、
ろうの会員に「何を言っているのかわからない」と訴えられたことがあった。
これらの状況を、聞こえる会員にどう理解してもらえるか、私の課題だ。
スタッフ役員(もちろん私)も、「うっかりミス」はあるので、一般会員から、
「手話通訳がいないから、連絡は少し待って」と声がかかるようになれば最高だ!。
ろう者の参加は、情報の伝達に配慮すれば、はぼ、一緒にウォーキングを楽しめる。
栃木県に住む会員のTさんは、以前、神奈川の会に所属していた。神奈川の会には、
Sさんというろうの会員がいたので、所属していた。しかし、活動地域が遠方なので、
数年で退会してしまった。
ところが、私とSさんが他のろう者を通して知り合いとなったため、Tさんとつながった。
その他いろいろな経緯で、歩きたいと思っているろう者が悠歩の会に集まってきた。
現在ろうの会員は10名となった。
障害者とスポーツ、健康などの課題を考えると、肢体不自由者、視覚障害者、
精神障害者、知的障害者の参加も視野に入れた活動が求められると思う。
NHKラジオ第一で、毎朝放送している「今日は何の日」によると、
昨日(22日)は、「国防上の機密として秘匿されていた天気予報が再開された日」。
完全な機密扱いであったのは、新聞やラジオでの天気予報で、
1941年12月8日から1945年8月21日まで。一部制限はそれ以前にもあった。
国民生活上、農、漁業などに台風情報は必要なものだが、国家の必要が優先された。
1944年の東南海地震の被災情報も公開されなかった。
旧日本軍が、必ずしも国民保護を優先せず、一個師団が敵前逃亡したり、
軍需物資を持ち逃げしたりしたことを考え合わせると、全ての軍隊ではないにしても、
何のための秘密かという思いも湧き上がる。
「秘密」が「秘密として法制化」されると、法律が一人歩きするのは、よくあることである。
現代の「個人情報保護法」にも、そのような側面があり、災害、福祉対策、国民生活上、
ネックになり出した。過激な商業活動や、詐欺などから市民を守るはずであった法律が、
安易に「個人情報」扱いされ、小団体の名簿さえ作れない事態になっている。
「個人情報保護法」では、小グループの名簿まで、法律の適用範囲ではないのだが、
誤解と、わがまま?、想像力の欠如により、作りにくくなってしまった。
最近、見直しが検討されだしたが、さてどうなるであろうか?
因みに、近隣の館林市では、熱中症予防対策のため、市を挙げて(行政、企業、市民)、
予防対策の周知(正しい知識の普及)を始めたところ、昨年より熱中小による搬送者が、
1割減少し、死亡者は出ていないそうだ。
個人情報保護法も、条文の理解を徹底すれば、小グループや、地域の名簿程度は、
問題にならないことがわかるのだが?
むしろ、名簿を売ったり、悪用ができないような法整備、厳罰化を優先してほしい。
『猿の惑星』では、人間が力を頼み、あるいは力の均衡(核抑止?)が可能であると信じて、
原子爆弾を増やしていった人間社会に警鐘を鳴らしている。
人類が持つ原爆の量は、地球を破壊するほどの力を持ってしまった。
それは、私たちのこの地球上でも予測されている。
我が国の原子力発電の状況を見れば、平和利用の結果として、そうなる可能性もある。
そのような近未来の予想図を踏まえて、この映画を見ると、妙に生々しい。
主人公が原爆で破壊された町を見て、「問題は良心の欠如だ」と言った。
しかし、「良心」などと、人の心のあり方に問題があるのではなく、
人間のあたりまえの責任として、「想像力」の欠如こそが問われるべきことであると思う。
もろもろの社会問題に対し、マスコミは、善意、優しさ、良心などに訴える傾向があるが、
問題解決の矛先を変える働きをするだけではないか。
多くの場合、善意、良心、優しさは、問題の真因を正そうとする働きに対し、
「何も今ここで言わなくても」に代表される雰囲気言葉で、現状を曖昧にぼかし、
抵抗勢力としての役割を果たす結果になっていると思う。