定州(河北省)に宿営したとき、後から長安を出発した唐軍が到着すれば、太宗は必ず北門の楼上にお出ましになり、遠路はるばる歩いてきた兵士たちを迎えて、その労をねぎらった。
そのなかに一人、病気のため歩けなくなっている兵士がいた。太宗はその兵士を呼んで、床几の前まで来させると、天子自らお声をかけて「痛むところはどこか」と兵士にたずねた。
驚いた兵士が、心臓が飛び出るほど恐縮しながら答えると、太宗はすぐに定州の医者を呼ぶよう側近に申しつけた。駆けつけてきた医者に、太宗は「この者を治療せよ」と命じた。
このこと以来、諸将から兵卒まで、太宗のもとへ参じて従軍したいと願わないものはなかった。
貞観19年、というと西暦645年に当たります。ご存じの通り、日本では大化の改新の始まりを告げる「乙巳の変」。あの蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺事件が起きた年です。
『貞観政要』の原文では......
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