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石山本願寺

2013-02-22 21:51:39 | 大阪府
 石山本願寺

2013/2/11

大阪府大阪市のお城めぐり

 十一年に及ぶ織田信長との石山合戦に耐えた本願寺門徒の本拠地

≪ お城の概要 ≫

城名: 石山本願寺
よみ: イシヤマホンガンジ
別称: 石山本願寺城・大坂城
所在地: 大阪府大阪市中央区大阪城1-1
現状: 大阪城公園
築城年代: 天文二年(1533)
築城者: 証如
形式: 平城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2011/8/30・2013/2/11


≪ 訪城記 ≫

大坂城と重複する場所に存在したため、大阪城の訪城記を参考にしてください。

玉造口の参道脇に蓮如上人袈裟懸けの松があり、説明板と碑が建てられた裏側の東屋の中に切株が残っている。

六番櫓の北、修道館の西側の一角に説明板と石山本願寺推定地の碑が建っている。

豊臣秀吉の大坂城築城によって、石山本願寺の上に豊臣大坂城が建ち、その後徳川氏による大坂城が豊臣大坂城の上に築城されているため、石山本願寺の正確な位置がわからないようです。


≪ 歴 史 ≫

明応五年 (1496) 蓮如上人が大坂の地を得て、坊舎を建立したことに始まる。
永正三年 (1506) 河内で細川政元と畠山義豊が争った際に、政元からの支援要請で実如が参戦に踏み切らざるを得なくなり、この時から本願寺の武装化と武士勢力への加担が始まった。
天文元年六月、畠山義宣と筒井順慶の連合軍が飯盛山城の木沢長政を攻撃した際に、細川晴元の要請で証如が門徒二万人をい率いて義宣・順慶連合軍を打ち破り、その余勢をかって、堺の三好元長(三好長慶の父)を死に追いやり、その後勢力が急激に拡大した。
この勢いに細川晴元も敵対することなり、同年八月から本願寺への細川勢の攻撃が始まる。同年八月二十三日、山科本願寺は焼き討ちにあい焼失してしまう。
天文二年七月二十五日 (1533) 山科から運び出された祖像が石山御坊に遷座される。これより石山本願寺が城郭としての防備を固め、「摂州第一の名城」と謳われ、要害堅固を誇るようになる。
元亀元年九月十二日 (1570) 織田信長と対立し、石山合戦が勃発、十一年に及ぶ長い戦争が始まる。
天正八年閏三月五日 (1580) 天皇の調停により、和議が成立し、顕如は四月九日、祖像を奉じて大坂を退去して紀州鷺の森へ移る。
その後、信長から秀吉の時代に移り、石山本願寺の跡に大阪城が築城され、さらにその上に徳川氏の大阪城が築かれる。


≪ 写 真 ≫


石山本願寺推定地


蓮如上人袈裟懸けの松の碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR大阪環状線森ノ宮駅、大阪城公園駅から徒歩すぐ。
地下鉄谷町線、中央線谷町四丁目駅から徒歩約15分。
<車>
名神高速道路豊中ICで阪神高速11号池田線に乗り南下、新淀川を渡り、しばらく走って道なりに大きく右に曲がる。中之島の上で大きく左に曲がり、阪神高速1号環状線に乗る。中之島の終わりで大きく右に曲がる。そのまま南下して、中央区役前で大きく左に曲がり、阪神高速13号東大阪線に乗り、法円坂で阪神高速を降りて、阪神高速の側道を東へ進む。森ノ宮入路の信号で左折、すぐをまた左折して、本町通りに出て、Uターンしてすぐに大阪城の有料駐車場の入り口があり、乗用車専用駐車場に入る。


≪ 位置図 ≫

石山本願寺推定地


紹介したお城の数 31城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社