田辺城
2013/4/29 但馬遠征(2泊3日)帰り道
京都府舞鶴市のお城めぐり
関ヶ原の戦いで細川幽斎が籠城したお城
≪ お城の概要 ≫
城名: 田辺城
よみ: タナベ
別称: 舞鶴城
所在地: 京都府舞鶴市南田辺
現状: 舞鶴公園
築城年代: 天正十三年(1585)
築城者: 細川忠興
形式: 平城
遺構: 復元城門・模擬隅櫓・天守台跡・石垣・井戸
規模: 560m×900m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2011/11/2・2013/4/29
≪ 訪城記 ≫
但馬遠征(2泊3日)帰り道 3日目、綾部城から田辺城へ向かう。
綾部駅の駐車場を出て駅前の府道を東に向かい、由良川に架かる丹波大橋を渡り、東詰の味方三叉路信号を左折、国道27号を北上、西舞鶴市内へ入り大手千日前交差点信号を右折、次の二の丸交差点信号を左折、約100mで田辺城跡のある舞鶴公園に着く。さらに100m北へ進むと道の東側に舞鶴市南田辺有料駐車場がある。ここの車を駐車する。
徒歩で南に戻ると舞鶴公園北西角の隅櫓、正面に復元された立派な城門がある。この城門の2階部分は無料の資料館で、隅櫓内にも田辺城の模型が飾ってある。
城門を入って右側に天守台跡、隅櫓前に井戸跡や石垣が残っている。さらに公園北東隅に細川幽斎ゆかりの「古今伝授の碑」のある心種園がある。
公園東側にはJR舞鶴線が通っていて城跡が分断された形になっている。
≪ 歴 史 ≫
天正八年 (1580) 一色義道の治める丹波国を細川藤孝・忠興父子が織田信長の命で攻略、七月丹波国を賜る。
天正十年 (1582) "本能寺の変で忠興の奥方(ガラシャ)が明智光秀の娘であったため、豊臣秀吉に嫌疑をかけられぬように奥方を山中に隠し、難を逃れた。
一色義道の子義俊を宮津城で誘殺し、丹後国を一統した。"
天正十三年 (1585) 田辺城を築城する。しかし、天守台には天守閣は造られないまま終わる。
慶長五年 (1600) 細川忠興は関ヶ原の戦いで東軍に属し、田辺城は西軍の大野木重勝らの大軍に攻められ、細川幽斎は籠城する。歌人として優れた幽斎と「古今伝授」が潰えるのを案じた朝廷が停戦の勅命によって幽斎は開城する。関ヶ原の本戦は東軍の勝利に終わり、戦功により忠興は豊前小倉三十九万石の領主となる。
慶長六年三月 (1601) 信州伊那から京極高知が入城する。高知が卒去後は、次男高三が田辺城を継ぐ。
寛文八年八月 (1668) 三代高盛の時、但馬国豊岡に移封される。その後に牧野親成が入城し、明治四年(1871)、廃藩置県まで牧野氏が治める。
平成四年 (1992) 城門が復元される。
≪ 写 真 ≫
隅櫓
復元城門
舞鶴公園碑と城門
公園内からの隅櫓
天守台跡
井戸跡
登り階段と石垣
古今伝授の碑
北東側の石垣
田辺城址碑
現地舞鶴公園案内図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR舞鶴線西舞鶴駅から徒歩約5分。
<車>
舞鶴若狭道西舞鶴ICを降りて府道27号を西進、国道27号に出て北上、西舞鶴市内へ入り大手千日前交差点信号を右折、次の二の丸交差点信号を左折、約100mで田辺城跡のある舞鶴公園に着く。さらに100m北へ進むと道の東側に舞鶴市南田辺有料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
田辺城(舞鶴公園)
紹介したお城の数 70城
2013/4/29 但馬遠征(2泊3日)帰り道
京都府舞鶴市のお城めぐり
関ヶ原の戦いで細川幽斎が籠城したお城
≪ お城の概要 ≫
城名: 田辺城
よみ: タナベ
別称: 舞鶴城
所在地: 京都府舞鶴市南田辺
現状: 舞鶴公園
築城年代: 天正十三年(1585)
築城者: 細川忠興
形式: 平城
遺構: 復元城門・模擬隅櫓・天守台跡・石垣・井戸
規模: 560m×900m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2011/11/2・2013/4/29
≪ 訪城記 ≫
但馬遠征(2泊3日)帰り道 3日目、綾部城から田辺城へ向かう。
綾部駅の駐車場を出て駅前の府道を東に向かい、由良川に架かる丹波大橋を渡り、東詰の味方三叉路信号を左折、国道27号を北上、西舞鶴市内へ入り大手千日前交差点信号を右折、次の二の丸交差点信号を左折、約100mで田辺城跡のある舞鶴公園に着く。さらに100m北へ進むと道の東側に舞鶴市南田辺有料駐車場がある。ここの車を駐車する。
徒歩で南に戻ると舞鶴公園北西角の隅櫓、正面に復元された立派な城門がある。この城門の2階部分は無料の資料館で、隅櫓内にも田辺城の模型が飾ってある。
城門を入って右側に天守台跡、隅櫓前に井戸跡や石垣が残っている。さらに公園北東隅に細川幽斎ゆかりの「古今伝授の碑」のある心種園がある。
公園東側にはJR舞鶴線が通っていて城跡が分断された形になっている。
≪ 歴 史 ≫
天正八年 (1580) 一色義道の治める丹波国を細川藤孝・忠興父子が織田信長の命で攻略、七月丹波国を賜る。
天正十年 (1582) "本能寺の変で忠興の奥方(ガラシャ)が明智光秀の娘であったため、豊臣秀吉に嫌疑をかけられぬように奥方を山中に隠し、難を逃れた。
一色義道の子義俊を宮津城で誘殺し、丹後国を一統した。"
天正十三年 (1585) 田辺城を築城する。しかし、天守台には天守閣は造られないまま終わる。
慶長五年 (1600) 細川忠興は関ヶ原の戦いで東軍に属し、田辺城は西軍の大野木重勝らの大軍に攻められ、細川幽斎は籠城する。歌人として優れた幽斎と「古今伝授」が潰えるのを案じた朝廷が停戦の勅命によって幽斎は開城する。関ヶ原の本戦は東軍の勝利に終わり、戦功により忠興は豊前小倉三十九万石の領主となる。
慶長六年三月 (1601) 信州伊那から京極高知が入城する。高知が卒去後は、次男高三が田辺城を継ぐ。
寛文八年八月 (1668) 三代高盛の時、但馬国豊岡に移封される。その後に牧野親成が入城し、明治四年(1871)、廃藩置県まで牧野氏が治める。
平成四年 (1992) 城門が復元される。
≪ 写 真 ≫
隅櫓
復元城門
舞鶴公園碑と城門
公園内からの隅櫓
天守台跡
井戸跡
登り階段と石垣
古今伝授の碑
北東側の石垣
田辺城址碑
現地舞鶴公園案内図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR舞鶴線西舞鶴駅から徒歩約5分。
<車>
舞鶴若狭道西舞鶴ICを降りて府道27号を西進、国道27号に出て北上、西舞鶴市内へ入り大手千日前交差点信号を右折、次の二の丸交差点信号を左折、約100mで田辺城跡のある舞鶴公園に着く。さらに100m北へ進むと道の東側に舞鶴市南田辺有料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
田辺城(舞鶴公園)
紹介したお城の数 70城
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