桜井城
2014/1/2
愛知県安城市のお城めぐり
桜井松平氏代々の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 桜井城
よみ: サクライ
別称:
所在地: 愛知県安城市桜井町城阿原
現状: 城山公園
築城年代: 文明年間(1469-86)
築城者: 松平信光
形式: 平城
遺構:
規模: 150m×140m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2014/1/2
≪ 訪城記 ≫
安祥城から桜井城へ向かう。
安城市歴史博物館の駐車場を出て博物館前の道を南西に進み、突き当りの信号を斜めに左折、県道286号を南下、東海道新幹線の高架下をくぐり、桜井塔之元信号を斜めに左折、県道44号を南下、約350mで道路右側に小さな公園がある。ここが桜井城跡の城山公園で公園南側を斜めに右折した狭い道を少し入ると公園入口で車2台置ける駐車場がある。ここに車を駐車する。
入口右側に説明板、左側に桜井城址碑があるのみで遺構はない。
≪ 歴 史 ≫
最初、小浦喜平治忠重が屋敷を構える。
文明年間 (1469-87) 松平信光が安祥に進出し、桜井城も松平氏が領有する。松平親忠の四男親房が城主となるが、実子がなく、長親の三男信定が養子となり、桜井松平氏の祖となる。
享禄二年 (1529) 吉田城攻めや織田方の品野城、岩崎城を攻略し、功により品野城を与えられる。
享禄三年 (1530) 東三河の宇利城を松平清康が攻め、この時、信定は兄親盛(福釜松平)と共に大手を攻めたが、信定が親盛を救援しなかったために親盛が討死してしまい、清康の怒りを買う。
天文四年 (1535) 清康の守山出陣に信定は病と称し上野城から動かず、内通のうわさが広がる。守山崩れが起こり、信康が弑され、信定が織田方と通じ、宗家を奪おうとしたため、身の危険を感じた松平広忠は岡崎を脱出し、一年間におよぶ流浪生活を送る。
天文六年 (1537) 広忠が一族の働きによって岡崎城に戻る。宗家の乗っ取りに失敗した信定は広忠に謝罪して許される。
天文七年 (1538) 信定が死去し、清定が継ぐ。
天文十二年 (1543) 清定が死去し、家次が継ぐ。
永禄元年 (1558) 品野城において織田軍の攻撃を受けるがよく防戦する。
永禄六年 (1563) 家次が三河一向一揆に属し、家康の怒りを買う。七月に死去したという。忠正が継ぐ。
天正元年二月 (1573) 武田氏の野田城攻めに、菅沼定盈の援軍として防戦につとめたが、捕えられ山家三方衆との人質交換より帰される。
天正五年 (1577) 忠正が病没し、弟の忠吉が継ぐ。
天正十年 (1582) 忠吉が病没し、忠正の子家広が継ぐ。
天正十八年八月 (1590) 徳川家康の関東移封に従い、武蔵松山城に移り、桜井城は廃城となる。
≪ 写 真 ≫
桜井城址碑
城山公園
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
名鉄西尾線桜井駅から徒歩10分。
<車>
東名高速岡崎ICを降りて岡崎インター西交差点信号を直進、国道1号東海道を西進、岡崎市役所前を通り岡崎城前の岡崎公園前信号を直進、矢作川を越えて矢作町加護畑交差点信号を左折、県道44号を南下、矢作町橋塚東信号を斜めに右折、道なりに進み東海道新幹線の高架下をくぐり、桜井塔之元信号を直進、約350mで道路右側に小さな公園がある。ここが桜井城跡の城山公園で公園南側を斜めに右折した狭い道を少し入ると公園入口で車2台置ける駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
桜井城(城山公園)
紹介したお城の数 169城
2014/1/2
愛知県安城市のお城めぐり
桜井松平氏代々の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 桜井城
よみ: サクライ
別称:
所在地: 愛知県安城市桜井町城阿原
現状: 城山公園
築城年代: 文明年間(1469-86)
築城者: 松平信光
形式: 平城
遺構:
規模: 150m×140m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2014/1/2
≪ 訪城記 ≫
安祥城から桜井城へ向かう。
安城市歴史博物館の駐車場を出て博物館前の道を南西に進み、突き当りの信号を斜めに左折、県道286号を南下、東海道新幹線の高架下をくぐり、桜井塔之元信号を斜めに左折、県道44号を南下、約350mで道路右側に小さな公園がある。ここが桜井城跡の城山公園で公園南側を斜めに右折した狭い道を少し入ると公園入口で車2台置ける駐車場がある。ここに車を駐車する。
入口右側に説明板、左側に桜井城址碑があるのみで遺構はない。
≪ 歴 史 ≫
最初、小浦喜平治忠重が屋敷を構える。
文明年間 (1469-87) 松平信光が安祥に進出し、桜井城も松平氏が領有する。松平親忠の四男親房が城主となるが、実子がなく、長親の三男信定が養子となり、桜井松平氏の祖となる。
享禄二年 (1529) 吉田城攻めや織田方の品野城、岩崎城を攻略し、功により品野城を与えられる。
享禄三年 (1530) 東三河の宇利城を松平清康が攻め、この時、信定は兄親盛(福釜松平)と共に大手を攻めたが、信定が親盛を救援しなかったために親盛が討死してしまい、清康の怒りを買う。
天文四年 (1535) 清康の守山出陣に信定は病と称し上野城から動かず、内通のうわさが広がる。守山崩れが起こり、信康が弑され、信定が織田方と通じ、宗家を奪おうとしたため、身の危険を感じた松平広忠は岡崎を脱出し、一年間におよぶ流浪生活を送る。
天文六年 (1537) 広忠が一族の働きによって岡崎城に戻る。宗家の乗っ取りに失敗した信定は広忠に謝罪して許される。
天文七年 (1538) 信定が死去し、清定が継ぐ。
天文十二年 (1543) 清定が死去し、家次が継ぐ。
永禄元年 (1558) 品野城において織田軍の攻撃を受けるがよく防戦する。
永禄六年 (1563) 家次が三河一向一揆に属し、家康の怒りを買う。七月に死去したという。忠正が継ぐ。
天正元年二月 (1573) 武田氏の野田城攻めに、菅沼定盈の援軍として防戦につとめたが、捕えられ山家三方衆との人質交換より帰される。
天正五年 (1577) 忠正が病没し、弟の忠吉が継ぐ。
天正十年 (1582) 忠吉が病没し、忠正の子家広が継ぐ。
天正十八年八月 (1590) 徳川家康の関東移封に従い、武蔵松山城に移り、桜井城は廃城となる。
≪ 写 真 ≫
桜井城址碑
城山公園
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
名鉄西尾線桜井駅から徒歩10分。
<車>
東名高速岡崎ICを降りて岡崎インター西交差点信号を直進、国道1号東海道を西進、岡崎市役所前を通り岡崎城前の岡崎公園前信号を直進、矢作川を越えて矢作町加護畑交差点信号を左折、県道44号を南下、矢作町橋塚東信号を斜めに右折、道なりに進み東海道新幹線の高架下をくぐり、桜井塔之元信号を直進、約350mで道路右側に小さな公園がある。ここが桜井城跡の城山公園で公園南側を斜めに右折した狭い道を少し入ると公園入口で車2台置ける駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
桜井城(城山公園)
紹介したお城の数 169城
ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり! | |
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄 | |
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