中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る甲州道中四十四次(第6回);第3日目(3);石和宿

2013年11月01日 07時00分13秒 | 甲州道中四十五宿

                                 <白山神社で休憩>

   歩いて巡る甲州道中四十四次(第6回);第3日目(3);石和宿
            (五十三次洛遊会)
       2013年9月28日(土)~30日(月)

第3日目;2013年9月30日(月)(つづき) 晴

<ルート地図>


※前掲図



<笛吹川に沿って石和宿へ>

■堤防道を降りる
 堤防道の散策を楽しんだ後,12時40分に白川地区水防倉庫脇で堤防道から下に降りる.直ぐに自動車道路に突き当たる.この道は先ほどまで歩いていた道の続きである,
 相変わらず天気は良く,空には雲一つない.でも,それだけ蒸し暑い.もう,9月も下旬だというのに…

<白川地区水防倉庫>

■白川高校入口から白川橋へ
 自動車道をトボトボと歩いている内に,明治天皇白川御小休跡の石碑を見落としてしまう.あまた,道路から北へ少し入った所に観音堂があることは分かっているが,時間が惜しいので立ち寄るのは省略する.
 12時54分,信号白川高校に到着する.
 13時00分,次の信号一町田中で左折する.ついで,13時03分,三叉路に突き当たる.ここで右折,そして13時04分,白川橋に到着する.
 
<信号白川高校を通過する>                       <白川橋>

■白山神社の木陰で休憩
 本来の中山道は,白川橋を渡った所で,一旦左折し,直ぐに2回羽越を繰り返し,最初にっせつしたと頃から,僅かに20~30メートルほど離れた所にまた戻るコースになっている.しかし,自動車の交通量がとても多く,しかも信号機がないところを2度も横断しなければならない.
 ここは安全第一と考えて,ややこしい横断道は割愛することにする.
 13時08分,白川橋の直ぐ近くにある白山神社に到着する.境内の木陰を利用して,ここで休憩だ.正直,蒸し暑くてシンドイ.
 境内には丸石の道祖神が安置されている.


<白山神社で休憩>

■山口白峰句碑
 白山神社から南へ200メートルほど離れた所に瑞蓮寺があることは分かっているが,中山道から離れているので,参拝は割愛する.なお,瑞蓮寺の本堂には武田信玄が寄進した鶴亀の松があるという(資料1).
 13時30分,山口白峰句碑に到着する. 
 資料3によると,この句碑には,
 “妻と子よ おやすみと書く 旅日記”
と書いてあるという.


<山口白峰句碑>

■立派な3階建ての蔵
 13時23分,カーブミラーの前を通過し,聚落の中の道が続く.13時33分,立派な3階建ての蔵の前を通過する.

<3階建ての蔵>

甲州桃太郎街道標識
  13時37分,RIVER SIDE HOTEL Wの脇で二車線の自動車道路と合流する.
 13時40分,甲州桃太郎街道標識が立っている所で,自動車の往来が激しい道路に合流する.
 
<RIVER SIDE HOTEL W>                           <甲州桃太郎街道道標>

■笛吹川を渡る
 自動車道路に合流してから,笛吹橋までの200~300メートルの間は歩道が全くない道である,私たちは頻繁に自動車が往来する土手道の隅っこを小さくなって怖々と歩く.
 “折角の旅も,こういうところがあるんで興ざめになるんだ…!”
と私は心の中だけで憤慨する.
 写真左前方に見えている小さな標識の所に笛吹橋がある.あの笛吹橋を渡ると,いよいよ石和宿である.

<笛吹川の堤防道を歩く>

<石和宿>

■石和宿の概要
 資料2(p.329)によると石和宿の宿内人口は1,143人.内,男578人,女565人.宿内惣家数166軒.内,本陣1軒,脇本陣2軒,旅籠18軒の規模である.同書(p.326)によると,石和の地名は,「大小多くの川が流れる荒れ地で,藺(い)が一面に生え茂っていたので藺の沢を略して藺沢と言ったのが初め」とのことである(辞書で調べると,藺はイグサのこと).
 江戸日本橋から38番目の宿場である.
 資料1によると,新羅三郎義光から4代目信義にとき,韮崎の地(武田)に移り,以降武田と名乗った.五郎信光は甲斐守として18代信虎のときにここが武田氏の本拠地になったことがあるという.

笛吹橋を渡る
 13時48分,笛吹橋を渡って,笛吹川の右岸沿い堤防下の道に降りる.そこには一寸した松並木がある.
 とにかく蒸し暑い.
 「松並木の木陰で休憩を取りましょう…」
とリーダーが提案する.勿論異論はない.
 「水分を摂りましょう」
ということで,木陰で立ち休憩をとる. 

<笛吹川堤防下の木陰で休憩>

笛吹三郎之碑
 休憩を終えて,近くの堤防上にある笛吹三郎之碑を訪れる.この辺りは公園風に整備されている.ここでまた笛吹三郎の像を見物するために数分の立ち休憩を取る.
 資料4には,「むかし,ここ芹沢の里にたいへん親孝行の権三郎という少年が母親と住んでいました.京より父を捜しにこの地まで来ましたが,すでに父は亡く,村人とともに暮らしていました.人々は笛の上手なこの少年を「笛吹権三郎」と呼んでいました.ある年の7月,大洪水に遭い,母子とも濁流にのみ込まれてしまい,幸い権三郎は自力で岸に上がり難を逃れましたが,母は流されて行方不明となってしまいました.母の好きだった篠笛を吹きながら,川を上り下りして捜しましたが見つからず,いつしか権三郎も疲れ果て川に落ち,下流の小松村まで流され,近くの長慶寺に手厚く葬られました.その後,川の音が権三郎の吹く笛の音のように聞こえることから,誰とはなしに笛吹川というようになりました.ここより上流を子酉川,下流を笛吹川と呼んでおります.今でもこの地域の人は,権三郎がつけていた不動明王を笛吹不動尊として供養を続けています.」という説明がある.
 笛吹川の名称が笛吹三郎に由来するとは,私は全く知らなかった.


<笛吹三郎之碑>

裏通りのような所を歩く
 笛吹三郎之碑から斜め右の路地に入る.
 近くに武田勝頼の腰掛石があった長昌院という寺があるが,ルートから外れているので,残念ながら参拝は省略する.また,長昌院に関するこれといった資料は今のところ見つけられない.
 長昌院から100メートル余り手前から道幅の狭い路地に入る.何となく寂しい裏通りという感じの道である.うら寂しい道をひたすら歩く.
 14時12分,十字路を渡る.十字路には川中島公園という標識がある.さらにこの道を進むと左手前方に「夕亭」という旅館(かな?)が見え始める.さらに先へ進んで,13時14分,進行方向右手にあるキンギョ養殖池を通過する.
 14時17分,キンギョ養殖地のすぐ先にある依田石材店のところで,先ほど通った堤防道の続きの道に合流する.合流点には,実に複雑な案内標識が立っている.
 
キンギョ養殖地>                                <複雑な案内標識>

遠妙寺
 14時20分,合流点の近くにある円明寺に到着する.ここの境内の日影を借りて休憩を取る.
 資料5には,円明寺は「文永11年夏の頃,高祖日蓮大上人御弟子,日朗日向両上人と共に当国御巡化の砌り鵜飼漁翁(平大納言時忠郷)の亡霊に面接し,之を済渡し即ち法華経1部8巻69380余文字を河原の小石一石に一字づつ書写され,鵜飼川の水底に沈め,三日三夜に亘り施餓鬼供養を営み彼の亡霊を成仏得脱せしめた霊場である.之に従って当山は「宗門川施餓鬼根本道場」として広く信徒に知られ又,謡曲「鵜飼」はこの縁起によって作られたものである」という説明がある.
 14時26分,休憩を終えて,遠妙寺を出発する.

<遠妙寺>

大黒天と願生稲荷神社
 遠妙寺脇にある大黒天を見送って,14時27分,願生稲荷神社に到着する.大きな鳥居が印象的である.
 願生稲荷社の由来などは,手許の資料やインターネットで調べた範囲では,今のところ良く分からない.
 
<大黒天>                                 <願生稲荷神社>

中地中の立像
 14時32分,中地中の立像の前に到着する.
 傍らに立っている案内板の説明によると,中地中は中巨摩郡源村(現白根町)出身,石和町小林伝右衛門の養子になり家業の石和銀行取締役支配人に就任.後に日本開発銀行初代総裁となった人物のようである.以後,東南アジア移動大使,インドネシア賠償交渉日本政府代表,アラビア石油社長,海外技術協力事業団初代会長など数多くの団体,会社の役員などを歴任した.昭和56年殁.享年82歳.正三位に叙せられた.石和市名誉市民.

<中村中像>

■八幡宮
 14時37分,八幡宮に到着する.
 資料5によれば,「成務天皇5年
に物部神社の社号を賜ったとされ,朝廷から尊崇されたびたび祈祷の勅命が下ったという.中世には甲斐国守護武田氏の歴代当主が尊崇し,源氏の氏神である八幡信仰の神社となった.鎌倉時代には甲斐源氏の一族である武田信光(石和五郎)が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという.甲斐国では当社のほかに,韮崎市神山町北宮地の武田八幡宮や山梨市北の大井俣窪八幡神社が知られる.戦国期には大永5年(1525年)に武田信虎が甲府開府にあたり当社を勧請し甲府に府中八幡宮が成立した.近世には甲斐を領有した徳川家康により新たに社領を安堵されており,歴代甲斐国主による尊崇を受けた.」という.

<八幡神社>

小林公園で解散
 14時40分,信号石和温泉駅入口にある小林公園に到着する.ここで3日間にわたる旅は解散となる.
 小林公園近くには由学館跡,武田石和館跡,観音寺など,いくつかの史跡があるが,これらの見学は次回に譲ることにする.

<石和温泉駅から帰宅>

■石和温泉駅へ
 私は数名の方々と一緒に,真っ直ぐJR石和温泉駅へ向かう.小林公園から石和駅までは結構な道のりである.
 かなりの急ぎ足で歩いて,14時47分に石和駅に到着する.

<石和温泉駅>

八王子・相模線経由で帰宅
 石和温泉14時55分発高尾行の電車に乗車する.
 高尾で乗り換えて八王子へ.八王子から茅ヶ崎行直通電車に乗車,茅ヶ崎から大船へ.随分ややこしいルートを辿ったが,19時30分頃,無事,鎌倉の自宅に帰宅する.
 3日間の旅でさすがに気力的に疲労感がある.
 夕食後,ゆっくりと風呂に浸かって,3日間の疲れを癒す.
 今回も良かった! 良かった!

<3日目のラップタイム>

 9:13  甲斐大和駅から歩き出し
 9:25  甲州道中に到着(今日の始点)
 9:35  鶴瀬関所跡
 9:46  真竜寺
 9:54  古跡鞍懸
10:00  観音堂
10:21  共和地区石碑
10:30  近藤勇像・柏尾橋跡
10:40  大善寺
11:05  上行寺
11:07  本陣跡
11:10  仲松屋
11:20  護念寺
11:37  シャテラーゼ(12:13まで昼食)
12:22  大法寺
12:40  白川地区水防倉庫
13:04  白川橋
13:08  白山神社
13:30  山口白峰句碑
13:40  甲州桃太郎街道標識
13:48  笛吹橋松並木(14:26まで休憩)
14:20  遠妙寺(14:26まで休憩)
12:27  願生稲荷神社
14:32  中地中立像
14:37  八幡宮
14:40  小林公園(解散)
14;47  石和温泉駅着

[歩行記録]

■水平歩行距離     16.0km

■累積登攀高度       75m    

■累積下降高度             431m

■所要時間(休憩時間込み)
  甲斐大和駅発      9:13
   石和温泉駅着     14:47
  (所要時間)    5時間34分(5.57h)
  水平歩行速度   16.0km/5.57h=2.87km/h

[参考文献]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ「ちゃんと歩ける甲州道中四拾四次」五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1998,『今昔三道中独案内 日光・奥州・甲州』日本交通公社
資料3;http://outdoor.geocities.jp/byffg309/5kaido/go-32diary-146.htm
資料4:http://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/sight/attract/history/others/gonzaburo.html
資料5;http://www.jinriki.info/kaidolist/koshukaido/kurihara_isawa/isawashuku/ukaizanonmyoji.html
資料6;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%92%8C%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
                                         (つづく)


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