<海野宿>
善光寺街道;第2回;第2日目(3);海野宿
(五十三次洛遊会)
2015年10月27日(火)~2016年10月29日(木)
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第2日目;2015年8月26日(水) (つづき) 晴
<ルート地図>
■海野宿
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■海野宿詳細図
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<白鳥神社>
■海野宿に入る
11時19分,しなの鉄道第2北国街道踏切を渡ると,すぐ右側に「海野宿」という刻字のある大きな石が置かれている.いよいよ観光の名所としても有名な海野宿である.私はここで十分な見学時間を取るように,あらかじめ計画をしている.もっとも,先ほどの丸山晩霞記念館で30分あまり予定外の時間を費やしてしまったので,その分だけ時間が少なくなるのは止むを得ない.
私は,当初,ここで1時間ほど自由時間を取って,適当に観光してもらおうかとも思ったが,それも返って煩わしい,どうせどこかで昼食を摂らなければならないので,一緒に行動することに決める.
<海野宿案内石>
■白鳥神社の境内
11時22分,まずは海野宿の入口にある白鳥神社を詣でる.
境内にある案内板の記事によると,「日本武尊が東征の際に,此の地に滞在されたことから,白鳥神社と命名されたという.この神社の祭神は,貞元親王,善淵王,海野広道の3柱である.貞元親王は,この地の豪族,海野氏の祖である.また,この神社は真田氏(海野氏を継承)の氏神でもある.真田信之(幸村の兄)により松代の舞鶴山(長野市松代)に分祀されている. 本海野および近在の産土神として崇敬され,春と秋に例大祭が行われる」という(要約).
境内の木陰で一休みする.
<白鳥神社>
■木曾義仲挙兵の地(白鳥河原の勢揃)
境内の一角に「木曾義仲挙兵の地」という案内板が立っている.この案内板にはおよそ次のようなことが書いてある(要約).
「治承5年(1181年)6月,後白河法皇第2皇子,高倉宮以仁王が発した平家討伐の令により,木曾義仲は,丸子の依田城を経て,千曲川の白鳥河原で挙兵した.平家物語や源平盛衰記に出てくる白鳥河原の勢揃」はこのときの模様を記述したものである.樋口,今井,根井,楯の木曾四天王を筆頭に,地元からは海野,祢津,望月,小室など滋野一族,それに西上州の武士団が集結した.このときの騎士団は2000~3000人に達した.
ここ海野は,海野一族の宗家海野氏の本領であった.
木曾義仲は,倶利伽羅峠で平家に勝って上洛した.寿永2年(1184年)1月,木曾義仲は征夷大将軍になるが,その10数日後,近江栗津で戦死した.
海野幸弘の嫡男,海野幸氏は木曾義仲滅亡後,源頼朝に仕え,鎌倉武士の弓馬四天王といわれた.」
この文章を読んで,私は,いつの日か,信州にある木曾義仲縁の場所を訪れてみたいの思い始める.
”まずは手始めに丸子辺りを歩いてみよう…ついでに信州の鎌倉と呼ばれる別所辺りもあるきたいな…”
と思っている.
<海野宿の景観>
<海野宿を散策>
■海野宿に入る
白鳥神社の参拝を終えて,いよいよ海野宿散策の開始である(冒頭の写真).
海野宿入口に立つと,道路の両側に昔ながらの家並みがずっと向こうまで続いているのが見える.
実は,私は中学か高校時代に,海野に住んでいた同級生の家に遊びに行ったことがある.おぼろげな記憶では,友人の家は,海野宿のほぼ真ん中,街道の南側にあった.道に面して格子戸がはまっていたように記憶している.あれから茫々,70年近くの歳月が過ぎ去り,今では肝心の友人が誰だったかも思い出せない.ただ,道路は今よりもっと狭かったように思える.また,道路の真ん中に小川が流れていたことだけは鮮明に覚えている.
”今見ている海野宿は,やっぱり記憶している海野宿とはちょっと違うな…”
と思うが,真偽は定かでないので,この感想は私の胸の内に収めておこう.
私達は道路の両側に並ぶ土産店や遺構をユックリ見物しながら,海野宿を大谷方面に向かって歩き続ける.
<海野宿の土産屋>
■媒地蔵尊・縁結地蔵尊
11時30分,媒地蔵尊・縁結地蔵尊の前に到着する.地蔵堂の前に案内板が立っている…が,一々読むのが,少々面倒なので,由来などの詮索はしないまま通過する.
<媒地蔵尊・縁結地蔵尊>
■海野宿資料館と卯建のある建物
11時32分,海野宿資料館の前に到着する.大人入館料200円,中には養蚕用の道具などが陳列されているという.入口から中をちょっと覗いてみるが,わざわざ入館料を払ってまで見学する気にはならない.
それよりも,そろそろ昼食を摂る食堂を探さなければならない,まさに花より団子状態である.
引き続き立派な卯建が取り付けられている建物の前を通過する.
昼食に気を取られている内に,藤田伝右衛門本陣跡や脇本陣跡を見過ごしてしまったようである.
<海野宿資料館> <立派な卯建のある家が並ぶ>
<そろそろ昼食だ>
■海野宿詳細地図
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■馬の塩嘗め石
どこかに食堂はないかと思いながら,宿場内の道を歩く.
11時39分,「馬の塩嘗め石」という面白い看板を見つける.なるほど軒下にそれらしい臼型の石が置いてある.家の中を見学できるようだが,今の私達の関心事は「馬の塩」ではなく,自分たちの食事である.
11時42分,どうやら食堂らしい所を見つける.
<馬の塩嘗め石> <食堂「うんのわ」>
■食堂「うんのわ」はお休み
やっと昼食にありつけそうだということで,暖簾を潜って「うんのわ」に入る.
何だか閑散.ガランとしている.どこからともなく若い女性の店員が出てきて,
「申し訳ありません…今日は食堂お休みです…」
とのこと.
お休みでは仕方がない.
「…この辺りで,食事ができるところはありませんか…?」
と伺う.すると,ここからちょっと先の国道18号線沿いに食堂があるとのことである.
お礼を言って,お店を出ようとすると,店員が,
「どうぞ,こちらを通り抜けて下さい…」
と店の裏口の方を指さす.
私達はご厚意に甘えて,店の中を通り抜けて裏手にでる.そこから石垣沿いの登り坂の小径を登ると,ガードフェンスに囲まれた舗装道路に出る.舗装道路で左折して100メートルほど進むと,善光寺街道と国道18号線を結ぶ舗装道路に突き当たる.突き当たりを右折する.
その先は,かなり急な上り坂である.
坂道は結構長い.進行方向左手は急傾斜の山になっている.山沿いに民家が建ちならんでいる.地図で確かめると,この山一体は,どうやら海野城趾のようである.
<「うんのわ」から国道18号線へ>
■食堂「真田乃庄」
急傾斜の登り坂が続く.結構シンドイ.
「田舎の人の,“直ぐ近く”はくせ者ですね…なかなか国道18号線に出ないですね…」
どどなたかが愚痴を言う.とはいえ,帰宅後,カシミールで調べると,水平歩行距離5.0キロメートル,標高差約20メートルに過ぎない.
それでも何とか坂道を登って,11時55分,食堂「真田乃庄」に到着する.昼食にピッタリの時間である.
「やっと,昼食にありつけるぞ…」
国道18号線沿いのお店だけあって,結構,客の入りも良さそうである.
<フェンスに囲まれた道路に飛び出る> <国道18号線沿いの「真田乃庄」>
■私は天丼だ
私は,天丼を注文する.
ほどなく注文の天丼が届く.割り箸の袋に六紋銭が印刷されているのを見て,ビックリする.実は私の母校も上田城趾の一角に位置していることから,何かにつけてこの六紋銭の模様を良く使うからである.高校の同窓会でも,六紋銭を染め抜いたお揃いのネクタイを持っているほど,六紋銭には愛着がある.
そんなこともあって,天丼を美味しく頂戴する.
<「真田乃庄」の天丼>
■コンビニでアフタヌーンコーヒー
昼食を終えた私達は,12時36分,真田乃庄から外に出る.
国道18号線沿いの直ぐ近くにコンビニがあるので,成り行きで立ち寄ることにする,12時38分,コンビニに到着する.ここで,12時50分までコーヒーブレークである.
私は,早速,100円也のコンビニコーヒーを賞味する.100円にしてはお値打ちだなと思いながら…
日差しがやや強いので,ガリガリ君やアイスクリームを食べている方も居られる.
<コンビニに立ち寄る> <100円コーヒー>
<大屋駅へ>
■光善寺入口
コンビニでの休憩を終えて,12時50分,午後の部の歩き出しである.まずは往路を戻る.
厳密にもれなく街道歩きをするならば,再び「うんのわ」の店内を通してもらって,善光寺街道に戻らなければならないが,もう一度店内を通してもらうのも気が引けるので,舗装道路をそのまま下って,12時56分,善光寺街道に突き当たる.
突き当たりの角に海野氏の菩提寺興善寺の案内石があるが,興善寺は今降りてきた坂道を1キロメートルほど登ったところに位置しているようである.即,ヤーメタ!…である.
本来ならば,「うんのね」まで,100メートルほど善光寺街道を戻らなければならないが,それも面倒なので,”ヤ~メタッ…”で,先を急ぐ.
12時59分,海野宿の案内灯の前を通過する.この辺りから先は,海野宿の賑わいがウソのような静かな道になる.
<興善寺の案内> <海野宿の案内灯>
■大屋駅
13時03分,西海野1号橋を渡る.
少しは馴れたところに足穂神社があるが,先ほど丸山晩霞記念館で予定外の時間を費やしてしまったこともあって,寄り道するのはヤメにする.
そのまま街道沿いに歩き続けて,13時20分,しなの鉄道大屋駅に到着する.
私にとって,ここは懐かしい駅である.その昔,私が小諸から上田まで汽車通学をしていた頃は,大屋駅に上田丸子電鉄が入っていた.上田東駅から丸子町までの電車である.大屋から上田方面の途中まで,信越本線の線路と上田丸子電鉄の線路が並行していた.ごくたまに,信越本線の列車と,上田電鉄の電車が同じ方向に走ることがあった,そんなときは,汽車通の私達は電車に負けるなと汽車の応援をした,
また,中学1年のとき,下校してから上田発の列車まで随分と時間があるので,小諸から通っている連中と一緒に,
「大屋駅まで歩こう…」
ということで歩き出したが,大屋駅でこの列車に乗り遅れてしまった.もうその次の列車はない.私達は,仕方なく,真っ暗な夜道を小諸駅まで歩いた.
家では息子が居なくなったと大騒ぎをしていた.子どもだった私は,家族が心配するなんて,これっぽっちも考えていなかった.その他にも大屋駅にまつわる思い出は沢山あるが,冗長なのでこの辺りにしておこう.
<大屋駅>
[参考資料]
資料1;完全踏査街道マップシリーズ『ちゃんと歩ける善光寺街道』五街道ウォーク事務局
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
(つづく)
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「善光寺街道」の索引
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【参考資料】
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