<浅間神社境内>
[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第3回):(3)鴻巣宿
(五十三次洛遊会)
2009年11月28日(土) (つづき)
※この記事の初出は2010年2月11日である.
初稿の地図を改訂し,本文の加除修正を行った.
<ルート地図>
↑ 下の地図から上の地図へ続く
※この地図は再掲載
<北本から鴻巣へ>
■浅間神社
食堂「夢庵」で食事を終えた私たちは浅間神社で自分の弁当を食べていた仲間と,12時38分に合流する.
11月とはいえ,日差しが眩しい.
浅間神社境内の林の中で,一休みしながら,集合写真を撮る.
<浅間神社境内にて>
■鴻巣市市境
12時42分,浅間神社を出発する.また,中山道に沿って,北西の方向に真っ直ぐに伸びる中山道に沿って,あまり変化のない道を歩き続ける.
私たちは,13時41分に桶川市と鴻巣市の市境を通過する.辺りは所々にビルが建つ住宅地の中を歩き続ける.
<鴻巣市へ入る>
<鴻巣宿>
■鴻巣宿の概要
資料3(p.54)によれば,鴻巣宿の宿内人口は2274人.内,男1132人,女1142人.宿内惣家数556軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠58軒だった.なお,資料5によると,これらのデータは天保14年(1843年)現在のものらしい.
資料1(p.22)によれば,鴻巣宿の南にあった本宿から宿が移されたのが鴻巣宿の始まりだという.鴻巣宿の南部人形町は,江戸時代から鴻巣人形を製造販売する人形屋が軒を連ねている.鴻巣宿の北部に,耐火建築の土蔵造りの商家が数軒残っている.
■鴻巣宿加宿上谷新田
鴻巣市に入って間もなく,鴻巣宿加宿上谷新田と刻字した石柱の前を通過する.
資料5によると,「鴻巣宿の加宿である上谷新田(現在地名:鴻巣市人形)にて農間期の農民が余技でこしらえる雛人形は,江戸中期に始まり,「鴻巣雛」の名で江戸周辺にも数多く出荷され,人気を博した」という.
なお,同資料によると.加宿とは「人馬を出しにくい小規模な宿駅で,近隣の村を1~2箇所加えたもの」のことである.
<鴻巣宿加宿上谷新田の石柱>
■八幡神社
13時06分,八幡神社の前を通過する.例によって,境内入口から遠目に神社の写真を1枚撮るのが精いっぱいである.
「やっぱり,一人で歩かないとダメだな・・・」
という思いが強まる.
チラリと見たところでは,八幡社の境内はとても広くて立派な神社のように思える.鎌倉の住民である私は,鶴岡八幡宮との関係がどうなっているのか知りたい.せめて,説明文だけでも写真に残したかったが,その余裕もない.残念.
<八幡神社>
■雛尾歴史資料館
13時10分,雛尾歴史資料館に到着する.残念ながら休館のようである.そのまま通過する.
資料6によれば,「江戸時代から約300年間,人形の製造や問屋として活用されてきた旧吉見屋人形店,旧雛屋歴史資料館(2009年5月閉館)の建物を活用し,2012年2月12日にオープンした鴻巣市の観光展示施設.鴻巣市の代表産業であるひな人形などを展示,資料保管庫の蔵もある.鴻巣市の観光案内所や会議室,多目的広場も併設している.」とのことである.
<雛屋歴史資料館>
■ひな人形の店とコミュニティセンター
13時11分,雛人形の店の前を通過,13時15分,コミュニティセンターの前を通過する.
<ひな人形の店> <コミュニティセンター>
■勝願寺
13時18分,勝願寺の前を通過する.私は慌てて写真を撮る.ここでも,せめて本堂の前まで行ってみたいなという不満が残る.
資料2(p.80)によると,「勝願寺の境内は広大.徳川家康の家臣で,関八州の新田や河川をつけた伊奈忠次,忠治親子の墓がある」という.
資料7には,「鎌倉時代,第4代執権で,壇越北条経時が鎌倉の光明寺開山の良忠に登戸の地を寄進し,一宇を建立した事に始まる.その後,清厳上人が天1573年(天正元年)に現在の場所に再興したとされている.1593年(文禄2年)に徳川家康が鴻巣で鷹狩を行った際に勝願寺を訪れ,二世住職円誉不残商人に感銘を受け,様々な宝物を寄進,また三つ葉葵を使用する事を許可したといわれる. 家康は,1597年(慶長2年),1601年(慶長6年),1604年(慶長9年)にも鷹狩を行い,1601年に訪れた際には, 家康の次男結城秀康の越前移封によって,領主不在となった結城城の御殿,御台所,太鼓櫓,築地三筋塀,下馬札,鐘などを寄進した.御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」,九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられた.大方丈は将軍来訪の際に使用された事から「御成の間」とも呼ばれ,将軍以外の使用を禁じられていたという.円誉不残上人は1606年(慶長11年)に後陽成天皇から,僧としては最高位の紫衣を与えられると名声が高まり,壇倫として興隆し,関東十八壇林の一つと呼ばれる様になった.しかし1872年(明治3年)の竜巻により御殿は全壊,1884年(明治15年)の火災により本堂、庫裏、鐘楼、仁王門など殆どの施設や宝物は失われた.その後、1893年(明治24年)に本堂,1920年(大正9年)に仁王門が再建され現在に至っている.また檀林として興隆した時代には学寮が置かれた場所は現在,公園として整備され,市民の憩いの場となっている.」という説明がある.
私は鎌倉在住の市民として.鎌倉の光明寺や良忠のことは多少知っていたが,ここ勝願寺と関連があるとは知らなかった.
<勝願寺>
■木村材木工業の店舗(本陣跡)
13時24分,木村木材工業(株)の前を通過する.ここが本陣跡だという.道路を挟んで反対側に「本陣跡」を示す石柱が立っている.
<木村材木工業> <本陣跡>
■猿田彦大神・仲町会館
13時26分,本通りから左折して,路地を少し入った右側,仲町会館を眺める.ここは本陣と仲市場の跡のようである.敷地の片隅に祀られる猿田彦大神を拝観して,すぐに本通りに戻る.
<猿田彦大神>
■与野フード
13時29分,四つ角にある与野フード店で,トイレ休憩.
<与野フード店>
■鴻神社
13時38分,休憩を終えた私たちは,与野フードを出発する.そして,13時48分,鴻神社に到着する.境内をざっと覗く.大きなイチョウの木がある.
資料8によると,「鴻巣宿の中心にあった氷川社,熊野社,雷電社を明治6年(1873年)に合祀し鴻三社と号したのが始まりである.その後,明治35年(1902年)に,日枝社,東照宮,大花稲荷社.八幡社を合祀して,社号を現在の鴻神社と改めた.当初は市内宮地5丁目にあったが,後に現在地に移転した.なお,旧社地には現在も八幡,稲荷,氷川の三社の祠が残されている.」という.
<鴻神社>
■道端の御堂
13時51分,Y字形の分岐点に到着する.向かって右側の道を進む.13時57分,JR高崎線の踏切を通過する.
14時01分,道端にある御堂の前を通過する.
<道端のお堂>
■光徳寺
14時14分,聖山光徳寺に到着する.境内をザッと拝観する.
資料9によれば,この寺は真言宗豊山派の寺院である.聖山不動院と号している.高野僧の源楽(天長2年825年寂)が開基となり創建したと伝えられる古刹である.江戸時代には寺領5石の御朱印状を拝領している.本尊は不動明王である.
<光徳寺>
■龍昌寺
14時28分,龍昌寺の前を通過する.
資料10によると,「言宗豊山派寺院.自在山龍珠院と号し,江戸時代までは箕田龍珠院と通称していた.光範僧都が永長2年(1097)に開山したと伝えられ,古くより近郷における新義真言宗の中心的な寺院として栄え,天正19年(1591)には満願寺と共に寺領5石の御朱印状を拝領,末寺三十六ヶ寺を擁していたという.往古は箕田龍珠院と称されていたが,江戸期より龍昌寺を通称とするようになった.」という.
■氷川八幡神社
14時31分,氷川八幡神社に到着する.ここには羅生門で鬼退治をした渡辺綱が祀られている(資料2,pp.80-81).
資料11によると,「氷川八幡神社は渡辺綱(源綱)が,永延2年(988年)当地に八幡宮を勧請して創建したという.氷川八幡神社の北側には渡辺綱の祖父箕田武蔵守源仕以来の館があったといい,また鴻巣市八幡田は,氷川八幡神社の神田だったという.また境内には,宝暦9年(1759)建立の箕田碑が残されている.明治時代に入り,字龍泉寺の八幡社(浅間社か?),箕田氷川神社を合併,氷川八幡神社と称した」という.
<氷川八幡神社>
[加除修正]
2013/2/1 ルート地図の改訂および本文の追加と加除修正を行った.
[参考文献]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E5%B7%A3%E5%AE%BF
資料6;http://www.knet.ne.jp/~ats/t/muse/h3/hina.htm
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E9%A1%98%E5%AF%BA
資料8;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE
資料9;http://www.tesshow.jp/saitama/konosu/temple_miyamae_kotoku.html
資料10;http://www.tesshow.jp/saitama/konosu/temple_mita_ryuju.html
(つづく)
「中山道六十九次」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/dc599b73b9693475b7b1c0134f61e92e
「中山道六十九次」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/6f1d717a4cad253ed6c24ebd95970bcf
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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