<和田峠でミーティング>
[改訂版]歩いて巡る中山道中六十九宿(第9回):第2日目(4):和田峠を下る
(五十三次洛遊会)
0年9月11日(土)~13日(月)
※本稿の初出は2010年12月30日である.
初稿に地図を追加し,本文の加除修正を行った.
第2日目:2010年9月12日(土) (つづき)
<ルート地図>
※再掲
<待望の和田峠>
■和田峠に到着
10時25分,坂道の先に和田峠が見え始める.小さな建物の屋根と,10名ほどの人影が見えている.もうすぐそこが和田峠だと分かっているが,この僅かな距離が焦れったい.
10時27分,私達も漸く国史跡和田峠(古峠;標高1,599m)に到着する.地図によると,ここは峠の南東,約100メートルの所にある駒ヶ岳(標高1657m)と,反対側にあるコル(浅間嶽というらしい;標高約1,645m)に挟まれた鞍部になっている.
先着の集団は地元の方々のようである.私達と同じように年配の方が多い.若いガイドに引率され,地元の史跡巡りをしている.この方々は,これから浅間嶽の方に向かうとのことである.
私達も和田峠の頂上で,現在地を確かめ,さらに,これからの行程をチェックする.そして,和田峠からの眺望を楽しみながら休憩を取る.
<和田峠に到着>
■和田峠からの眺望
山頂から諏訪方面を眺める.眼下に大きな山脈が横たわっている.その遙か先に諏訪盆地が見える.私達は,今日中にあそこまで歩かなければならない.まだまだ先が長いなと実感する.
<和田峠からの眺望>
■古峠と石塔群
峠へ登りきったところに案内板がある.この案内板には「中山道設定以来,江戸時代を通じて諸大名の参勤交代や,一般旅人の通行,物資を運搬する牛馬の行き来などで賑わいを見せた峠である.頂上に,遠く御嶽山の遙拝所がある.冬期は寒気が強い上に,降雪量も多く,冬の和田峠越えの厳しさは想像を絶するものがあったろう.1,879年(明治9年)東餅屋から旧トンネルの上を通って西餅屋へ下る紅葉橋新道が開通したため,この峠は殆ど通る人はなくなり,古峠の名を残すのみである」と記されている.
峠の北西側に馬頭観音が安置されている.その反対側の小高い丘の上に御嶽遙拝所の大きな石塔が立っている.
<石塔群>
<和田峠を下る>
■険しい下り坂
10時40分,和田峠を出発する.
これからは下り坂である.踏み跡程度の草の小径が続く.辺りは鬱蒼とした夏草に覆われている.石ころがやたらに多い山道である.
平素,登山をしている人にとっては,特にどうということはない道だが,山道に馴れていない人には辛い道かも知れない.
僭越ながら,私は列の最後について,皆の歩き方をそれとなくチェックし続ける.
<和田峠を下る>
■水呑場
暫くの間,谷の右岸沿いのトラバース道が連続する.トラバース道は,かなり急傾斜の岩稜混じり断崖を高巻きしている.結構な山道で,歩行には注意を要する.これまで歩いてきた中山道の中では,ここが一番の難所かも知れない.
10時47分,水呑場に到着する.苔むしたいくつかの石が並べられている.並べられた石の真ん中に「水呑場」と書いた木片が置かれている.
残念ながら,水は飲めない.
<水呑場>
■石小屋跡
10時50分,石小屋跡に到着する.近くにある案内板には次のような記述がある.「下諏訪側の峠近くは急坂で風雪のときは旅人も人馬も難渋した.大雪のときには雪割り人足も出勤した.下原村の名主勝五郎は,1,855年(安政2年)に避難場所と煮置場を造ろうと,郡奉行所に口上書を差し出し,馬士の出金,旅人等の援助を乞うて,50両ほどで石小屋を築いた.石小屋は,山腹を欠いて高さ約2メートルの石積みをし,この石積みを石垣壁として片屋根を掛けたもので,石垣からひさしまでの雨落ちまで2.3メートル長さ55メートルという大きいものであった.人馬の待避所や荷置場には絶好の施設であった.その後,慶応3年に修理したが,現在は石垣の一部を残すのみである.」
<石小屋跡>
■林の中の中山道
石小屋跡を通過する.なだらかな下り坂になる.相変わらす緑陰の中ののどかな道が連続する.やがて,広々とした草場に出る.草場の縁を回り込むようにして道は続く.
11時12分,舗装道路を横切って,再び谷筋沿いの静かな小径に入る.
11時18分,再び同じ舗装道路と交差する.
<林の中の道> <舗装道路と交差>
■立ち止まって道を確かめる
11時24分,林の中で立ち止まって,地図を見ながら自分たちの現在地を確かめる.もう西餅屋跡に到着しても良いはずだが,なかなか日餅屋跡に辿りつけない.間違ったところを歩いているのではないかと心配になる.
しかし,どう見ても間違ったところを歩いているとは思えない.もう少し先まで歩いてみることにする. こんな試行錯誤が,また,手作り旅の楽しさでもある.
<立ち止まって現在地を確かめる>
■西餅屋跡
私達の推測は正しかった.11時26分,私達が歩いている旧中山道が国道142号線と交差する.この交差点のすぐ手前が西餅屋跡である.日餅屋跡地は夏草が生え繁る広場になっている.広場の片隅に立派なベンチがある.広場の片隅に案内板がある.この案内板の説明は以下の通りである.
「西餅屋は江戸時代中山道下諏訪宿と和田宿の5里18丁の峠道に設けられた「立場(人馬が休息するところ)であった.ここは茶屋本陣の小口家と武居家,犬飼家,小松家の4軒があり,藩界にあったので,ときには穀留番所が置かれた.幕末の砥沢口合戦のときは,高島藩の作戦で消失されたが,すぐに再建された.現在は道の「曲之手(直角な曲り)」と茶屋跡が残っている.」
この案内文に出て来る「砥沢口合戦って何?」.私は帰宅後インターネットで調べてみたが簡単には分からない.このブログでも次回説明する水戸浪士の墓の近くにある説明文にも,この合戦のことが触れられているが,これらの説明文以上の具体的なことは,簡単には分からない.
<西餅屋跡>
■西餅屋跡で昼食
まだ昼食には少々早い時間だが,この先,食事が摂れる適当な場所があるか分からないので,ここにあるベンチに腰掛けて,早めの昼食を摂ることにする.
今朝,サイレントスノーで作っていただいた弁当を広げる.ずっしりとした重みがある弁当である.惣菜が沢山詰まった素晴らしい弁当である.
今はもう秋.ベンチに座り込むと,さすがに少々寒い.まだ,今日の宿泊地下諏訪宿までの道のりは長い.あまりユックリと昼食を賞味している時間はない.
<サイレントスノーで作って貰った弁当>
(つづく)
[参考資料]
資料1:今井金吾,1994,『新装版今昔中山道独案内』日本交通公社
資料2:『完全調査街道マップシリーズちゃんとあるける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料3:岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
(つづく)
[加除修正]
2013/8/14 地図の追加と本文の加除修正,参考文献などの追加
「中山道中六十九宿巡り」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/0cfa3904ab0d9e54612663c5c63d8293
「中山道中六十九宿巡り」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/1b89131ee4237d4f2ebefb3b19427044
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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