中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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歩いて巡る中山道六十九宿(第15回);第4日目(2);山科を行く

2012年12月31日 04時25分36秒 | 中山道六十九宿

                    <井筒八ッ橋本舗追分店にて>

 歩いて巡る中山道六十九宿(第15回);第4日目(2);山科を行く
            (五十三次洛遊会)
      2012年11月16日(金)~19日(月)

第4日目;2012年11月19日(月)


<山科付近の地図>



<放光山閑栖寺と車石>

■閑栖寺に到着
 旧東海道に入って暫くの間歩き続ける.
 9時47分,閑栖寺の前に到着する.
 資料3には「真宗大谷派で放光山閑栖寺と号す.山門上の太鼓櫓は50年前に修造され,門徒衆の参集,東海道中の旅人に時刻を告げていた.本願寺10代証如上人より阿弥陀如来の絵像を受領,江戸期には東本願寺宣如上人から阿弥陀如来像を賜った.三井寺智證大師の座像が安置されており,江戸期は東本願寺の末寺であり,当時の横木が三井寺領でもあったといわれている.」という説明がある.

<閑栖寺山門>

■車石・車道
 閑栖寺山門の脇に,「車石・車道」の案内板を見付ける,
 案内板の説明によると,「大津から京都までに3里(約12キロメートル)の道は,物資を運送する牛車の通行を容易にするために,花崗岩の厚い板状の石が敷き詰められていた.これを車石という,車石の付いている溝は,牛車が頻繁に通行したために削り取られてできたものである.文化2年(1805年)に,画期的な車石敷設工事が行われ,歩道と車道が分離された.この付近は京に向かって右側が車石が敷かれた車道で,左側は人や馬が通る人馬道だった.人馬道は旅人の安全を守るために,車道よりも一段高く造られていた.
 閑栖寺の境内には,当時の状況を一部復元して保存している」という.

 
<車石・車道>

■道に迷う
 私達は,この近くにある井筒八ッ橋本舗追分店に立ち寄りたいと思っている.
 数年前,東海道五十三次を歩いたときに,この店に立ち寄ったことがあるので,とても懐かしい.ところがボケが進んでいる私は当然のことながら,肝心の店が何処にあったのかが思い出せない.あのときはガイドの後ろにくっついて歩いていただけなので,自分で苦労していない.だから,ただでさえろくすっぽ覚えていない上に,ボケが始まっているので始末が悪い.
 本来右折しなければならないところを,気がつかないまま,何時の間にか通り過ぎてしまう.そして,大きな道と立体交差する階段の所まで来てから,
 “なんだか辺だな~ぁ・・・”
とやっと気がつく.
 それでも念のために,この写真の階段を登ってみる.やっぱり変である.
 それに困ったことに25000分の1の地形図には,井筒八ッ橋本舗などという具体的な商店名などもともと記載されているわけがない.
 鳩首相意見を交わした結果,どうやら然るべき右折箇所を通り過ぎたようだという結論になる.
 「戻りましょう・・・」
というリーダーの一声で,今来た道を引き返すことになる.
 緩やかな坂とは言え,引き返すとなると登り坂である.もう体が下り坂モードに切り替わっているので,僅かな登りでも身体に堪える.その結果,5分ほど戻って,やっとそれらしい曲がり角に到着する.
 「多分,ここでしょう・・・」
ということで枝道に入って,大きな自動車道の上を通る歩道橋を渡る.
 渡り終えて直ぐに,何となく見覚えのある道になる.ここで,やっと,井筒八ッ橋本舗が間近なことを確信する.

<5分ほど粋すぎたところにある歩道橋>

<井筒八ッ橋本舗追分店>

■盛況な店内
 10時10分,やっと井筒ハツ橋本舗追分店に到着する.確かに見覚えのあるところである.
 早速,店内に入る.店内は沢山の観光客で盛況である.“どケチ”な私は,最初から菓子類を買う気がないので,暇潰しに無料のお茶を飲んでいるだけである.ボンヤリと売店を見ていると,実に沢山の客が次から次へと店に入ってくる.
 外の駐車場を見ていると,次から次へと大型観光バスが到着する.殆どの観光バスは60~70歳代の老人で占められているようである.まあ,年令は私達の同じ程度だが,平素,私達のように歩き込んで居られる方は少ないようで,どうも足許が覚束ない人が多いようである.
 
<お店の看板>                                 <大型観光バスが次から次へとやってくる>

混雑する店内
 暇潰しに,店内を一回りする.
 ここでは八ッ橋だけでなく,多種多様な和菓子を扱っているようである.2~3箇所で試供品をつまみ食いしてみるが,どれもとても上品な味わいがある.
 観光バスで来られている方々は,総じて沢山のお土産を買っているようである.
 私は店の隅っこで無料のお茶を賞味しながら,ボンヤリと時間を過ごす.

<混雑する店内>

<いよいよ京都>

■善福寺
 10時28分,井ずつ八ッ橋本舗追分店から歩き出す.
 先ほど引き返した道を再び歩いて,10時39分,善福寺前を通過する.この寺は真宗大谷派に賊するようだが,それ以上の情報は,手許に資料にはない.

<善福寺参道入口を通過する>

<山科の社寺>

■ここから京都

 10時40分,大津市の京都市の市境を通過する.市境には「京都市」と書いた案内板が立っている.

<いよいよ京都市>

■山科地蔵と徳林庵
 10時41分,山科郵便局前を通過する.そして,10時45分,山科地蔵・徳林庵に到着する.路傍に建つ小さな建物だが,素人眼にも何となく由緒がありそうな気配を感じる.
 お堂の中に掲示されてる「山科(四宮・山科廻り)地蔵と徳林庵」と題した文章を拝読する.
 「山科地蔵は小野■(読めない)公により852年に作られた六体の地蔵尊のうちの一体で,初め伏見六地蔵の地にあった,後白河天皇は,都の守護,都の往来の安全,庶民の利益結縁を願い,平清盛西光法士に命じ,1157年,街道の出入り口六カ所に一体ずつ分置された.以後,山科地蔵は東海道の守護仏となり,毎年8月22日,23日の六地蔵巡りが伝統行事となった.
 徳林庵は,仁明天皇第四之宮人康親王の末葉南禅寺第260世雲英正悟禅師が1550年に開創した.
 境内には人康親王,蝉丸養塔(室町時代)茶所の四休石仏(鎌倉時代)荷馬の井戸,飛脚の鎌がある.

と記されている.

<山科地蔵>

■諸羽神社
 続いて,10時47分,諸刃神社の鳥居の前に到着する.立派な鳥居である.鳥居の脇には「郷社諸羽神社」と刻字された大きな石柱が立っている.
 傍らにある案内板の記事には,「天孫降臨の神話の中で,瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の左右に従った天児屋根命と天太玉命を祀るところから,雨羽大明神と称し■・・■(読めない)4年(862年)■・・・■(読めない)当社の始まりとされる.この後,正殿に応神天皇,脇殿に伊弉諾尊,素戔嗚尊,若宮八幡を合わせて祀るようになり社名の「雨羽」を「諸羽」に改められた.社殿は応仁の乱の兵火により焼け,その後もしばしば火災に遭った・・・」と記されている.

<諸羽神社>

■来迎寺
 10時51分,来迎寺の前を通過する.
 資料4には,この寺について,次のように紹介されている.なお,この資料は近くの小学校の学童が作ったものらしいが,とても素晴らしい出来である.機会があったら是非見て貰いたいと思いながら引用させて頂く.
 「九品山来迎寺といい、浄土宗のお寺である。西山国師が1227年に建てた。場所は今の場所でなく、鴬谷(毘沙門道の近く)にあったという。このお寺は何回か焼失している。1570年に織田信長と戦った浅井長政の兵により焼かれた。その後,1631年に再建された。1716年に再び火災が起こり、建物はもちろん、本尊の阿弥陀如来も燃えてしまい。唯一、鉦と長い数珠だけが焼け残ったという。その後、次の年に現在の土地に建て直された。その3年後に本尊阿弥陀仏(現在の本尊)が寄進された。本山は東山区にある永観堂禅林寺である。
 昭和44年までは大きなお堂があったが、地域の皆さんの保育園を建ててほしいという希望もあり、本堂をつぶして、2階に本堂、1階に保育園という今の形になった。

 
来迎寺の本山永観堂には本尊『見返り阿弥陀』がある。珍しい阿弥陀如来で顔が左を向いている。永観堂で、ある時、住職の永観が本堂で阿弥陀の周りを何回もまわりながらお経を唱えていた。永観は疲れて眠りそう になった時、「永観遅し」という声が前から聞こえてきた。ふと見ると、本尊の阿弥陀仏が、永観の前にいて、振り返っていた。この事から見返り阿弥陀と呼ばれるようになった。来迎寺は永観堂禅林寺の末寺である。」

<来迎寺>

■山科駅前
 来迎寺の直ぐ近くに,山科駅の駅前通がある.通りの突き当たりに山科駅が見えている(10時52分),

<山科駅前>

明治天皇御遺跡
 10時53分,「明治天皇御遺跡」と刻字された石柱の前を通過する.狭い道なので,カメラを十分に引けないため,石柱の一部が移っただけ.
 石柱に向かって左下に小さな説明文が置かれている.この記事によると,「この石碑は明治元年9月明治天皇御東幸の際,同2年3月の御環幸,および,同11年10月の御環幸の3回に亘って,古く戦国時代より東海道の茶店,宿場又本陣ちすて洛東山科の名刹毘沙門堂御領地内にあった.「奴茶屋」(現RACTO・A2階)に御駐輦されたことを記念して建立されたものである.」

<明治天皇御遺跡>

■禅林寺
 10時59分,禅倫寺の前を通過する.
 この寺の由来などは手許の資料では不明である.永観堂(禅林寺)の末寺だろうか? とにかく良く分からない.

<禅林寺>

史跡五条別れ道標(「右ハ三条」の道標)
 11時00分,「史跡五条別れ道標」と刻字された案内石柱が立っている街角に到着する.
 石柱の側には「右ハ三条」という刻字のある大きな石柱が立っている.
 この二つの石柱で,方や五条,方や三条と別々の表示になっているが,なぜ異なっているのか,私には良く分からない・


<「右は三条」の大きな道標>

■高架道を潜って路地に入る
 11時06分,高架橋の下を潜る.
 ここから先,広い道を少し進んだところにある理髪店近くで左折して,民家の間の路地に入る.道幅がごく狭い路地だが.この道が東海道である.
 路地をほんの少し進むと小さな川を渡る.川の両岸は公園風にセイブされていて,先ほど通過した高架橋の脇から,この川沿いに歩けば,ここで路地と突き当たる.
 
<高架橋を潜る>                                <狭い路地に入る>

■前方に丘陵が見えている
 川を渡ると進行方向左手が畠になる.視界も開けてくる.前方にはなだらかな丘陵が見えている.地図を見ると,この丘陵に京都大学花山天文台があるようだ.
 私達は,これからこの丘陵の山裾を廻り込んで京都市内に入る予定である.中山道の旅の“上がり”である三条大橋も大分近くなってきた.あと一息だ.



[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;http://kaiyu.omiki.com/oiwake/oiwake.html
資料4;http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/ansyu-s/syoukai/siseki/siseki.htm
                                       (つづく)                                  
 
「中山道六十九宿」の前の記事
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[編集後記]

2012年12月31日(月

 あれよ,あれよ・・・と思っているうちに,もう大晦日.今年一年,いろいろとやりたいことがあったが,物事が思うように進まないうちに,2012年ともお別れだ.
 今,纏めている中山道六十九宿の記録は今年中に完了するつもりだったが,あとちょとのところで来年に持ち越しだ.まあ,物事が予定通り進まなかったとしても,それはそれで良しとしておこう.
 ところで,丹沢の塔ノ岳登山は,今年中に65回程度は登りたいなと思っていた.私は毎週水曜日と土曜日に塔ノ岳へ行くことに決めていたが,この所,土曜日が悪天候だったり,他の用事と重なったりで,なかなか思うように出掛けられなかった.そうこうしている内に,何かと落ち着かない年末を迎えてしまった.そんなこともあって,今年の塔ノ岳詣では64回に留まった.
 水彩画の方もちょっと・・・・
 結局,今年画いた絵は,4から5枚だけ.絵に限らず何事も気が乗らないと進まないものだと実感している.
 でも,まあ,私ごとき高齢者になると,何事も無理は禁物.折角,親から頂戴した体である.来年も,大事に使いながら過ごしたいなと思っている.
 このところ,この私の拙いブログに,毎日,300人余りの方々にアクセスして頂いている.日頃のご厚情に対し改めて感謝の意を表したい.
 ”皆さん どうぞ良いお年をお迎え下さい”



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