<安中宿の杉並木を行く>
[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第2日目(3):安中から原市へ
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)~14日(日)
※本稿の初出は2012年10月16日である.
初稿に地図を追加し,本文の加除修正を行った.
2012年10月13日(土) (つづき)
<ルート地図>
■安中宿詳細地図(東側)(再掲)
■安中宿詳細地図(西部) (再掲)
■原市地区地図
<再び中山道へ>
■お菓子の店「あん」
妙光院の前から坂道を下って,再び中山道に戻る.その坂の途中,向かって右側にで小綺麗なお菓子屋さんがあるので,吸い込まれるように店内に入る.美味しそうなお菓子が並んでいる.同行者のお一人が人数分のお菓子を買って,私達に分けてくれる.
私も出来心で割れたセンベイばかりが沢山入った袋を随分と安価で購入する.
道中,この割れたセンベイを同行者にも食べて貰う.センベイは割れてはいるが,なかなか美味しいのでビックリする.
<お菓子や「あん」> <高級な商品が並ぶ>
■通りすがりの方に道順を伺う
地図を見ながら坂道を下る.地図を見ると,近くに蓮久寺という寺があるはずだが,どこにあるか分からない.たまたま通りがかりのご婦人に蓮久寺がどこにあるか伺う.この方は,通りすがりの旅の人間に過ぎない私達に大変親切に道順を教えてくれる.
<蓮久寺は何処?>
■蓮久寺
教えて頂いた道順を辿って,9時57分,蓮久寺に到着する.法昌山本龍院蓮久寺というらしい.日蓮宗.手許の資料では,この寺の由来などは分からないが,庭先に少々体格の良い日蓮の立像が安置されているのが見える.
資料5によると,蓮久寺住職(故)立川辨祐は,第2時世界大戦のとき特攻隊員であったが終戦によって生き延びた.戦後,亡くなった特攻隊員の霊をこの寺で慰労し続けたという.
なお,資料8には,「明応年間(後柏原天皇朝1492年7月19日~1501年2月29日)の創立.開山は、本立院日敬上人.開基は,行学院日朝上人及び壇越安中城主安中出羽守忠親の母堂法昌院殿妙円日龍大姉である.歴代の住職は,京都本圀寺貫主よりの任命であったが,宗教法人施行後は日蓮宗管庁の任命となった.大正8年6月(27代日祐上人の代)に本堂を開放して幼稚園を開設,日祐上人遷化後,28代日醒上人が事業を継承し,幼児福祉のために保育園に変更.昭和23年に児童福祉法が制定されるに伴い、,認の保育園として認可される.昭和56年に社会福祉法人に移管し,現在に至る.また,昭和36年に本堂庫裡を改築,昭和53年に山門改築・鬼子母神堂及び庫裡を新築した.」という説明がある.私のような一見(イチゲン)の旅人には,これは少々細かすぎる内容かな.
<蓮久寺>
■長徳寺
続いて,蓮久寺の境内の直ぐ隣にある長徳寺を訪れる.山号は碓氷山と言うらしい.手許の資料やインターネットで調べても,この寺の由来は不明.
<正徳寺の山門>
■安楽寺
坂道を下って中山道に突き当たったところに安楽寺らしい寺がある.
そろそろ時間が押してきたので,詳しく調べる時間もないし,何となく疲れてきた.間違っているかも知れないが,この寺を安楽寺ということにして,右折して中山道にはいる.手許の資料では,この寺の由来などは不明だが,資料4(p.17)によれば,この寺に六地蔵が安置されているようである.
なお,インターネットを使って,この寺の由来などを調べたが,ほとんど情報は得られない.
<安楽寺かな?>
■青照寺
10時08分,進行方向右手の路地奥に,立派な寺が見える.地図で確かめると,どうやら青照寺のようである.この寺の詳細も手許に資料では分からない.また,インターネットを使っても確とした情報は得られない.
<青照寺>
■安中大木戸跡
10時06分,安中大木戸跡に到着する.「史跡安中大木戸跡」と刻字した石柱が立っているだけで,往時を偲ぶ縁(よすが)もない.
ここに安中宿の木戸があったんだなと勝手に想像する.
インターネットで調べても,今のところ,安中大木戸跡についての明確な資料は見当たらない.
<安中大木戸跡>
■愛宕神社
10時19分,愛宕神社に到着する.
神社の前の広場には紅白のテントが張ってある.どうやらお祭りの真っ盛りらしく,何人かの役員らしい方が集まっている.
取りあえずは,広場の奥にある社殿でお参りを済ませる.
資料9には,「この神社は安中市の市街地の一段高い所にあります.これは古の愛宕神社古墳という前方後円墳の墳丘上に神社が鎮座している為です.御祭神は火産霊命です.創建の由来は,手水鉢,賛額などによると元禄年間に祠を祀り柳沢豊昵の夢告によって手水鉢を奉納したとあります.文武天皇の頃,又醍醐天皇の延喜の御代には霊地として信仰を受けていたようです.明治の神社合併の際には,熊野神社に合祀されかけましたが,ここは,火の神,熊野神社の末社・諏訪社は水の神であるから宜しくないという理由で合併されなかったと云う逸話が伝えられています.町中では特に火災が一番心配な事なので,火伏せの信仰は現代も脈々と続いています.例祭として鎮火祭(2月13日)春祭(4月13日)夏祭(8月23日)秋祭(10月13日)除夜祭(12月31日)が執り行われています.」という説明がある.
<愛宕神社>
■親切な地元の方
本殿の前にたまたま居られた初老の紳士が,私達に話しかける.そして,安中宿の見所などを教えてくれる.
「新島襄の旧宅を見ましたか・・?」
と聞かれる.まだ見ていないがこれから行くところだと答えると,いろいろ裏話を教えてくれる.ただ,その内容をこのブログに記載するには検証不足だと思うので,私の胸の内だけに止めておく.
ただ,折に触れて,地元の方と雑談できるのも楽しみであり,手造りの旅の醍醐味でもある.
<愛宕神社本殿の前で雑談>
<新島襄旧宅>
■紛らわしい案内板
10時24分,「新島襄旧宅」と書いた案内板を見付ける.
この案内板の矢印に沿って左折する.やけに狭くて草ぼうぼうの路地である.この路地を50メートル先まで進んで左折すればいいなと思って,狭い路地に入ると,僅か20メートルほどで道が左手に曲がる.その先は荒れ地になっている.
「おかしいな? 何処だろう・・・」
と探すが良く分からない.
残念ながら,分からないまま引き返す.
<新島襄旧宅の案内板> <路地に入る>
■また新島襄旧宅の案内板
合点が行かないまま,中山道を先に進む.
すると,50メートルほど先で,また「新島襄旧宅」と書いた案内板がある.この案内板を見て,私達は先ほどの案内板に書いてあった「50メートル先左折」の本当の意味がやっと分かった.
私達の体験からすると,さきほどの案内板はない方がマシだなと思う.
道路にも立派な案内杭が立っている.今度こそ間違いないようである.私達は巣喰われたような気持ちで路地に入る.
<新島襄旧宅の案内板>
■新島襄旧宅
中山道から左折して,住宅地の中の道路に入る.こんどは立派な道路である.50メートルほど入ったところで,まずは右折,さらに少し先で左折,そしてまた右折して突き当たりが新島襄の旧宅である.
茅葺きで気品のある簡素な住宅である.庭先には柔らかな秋の日が射している.登山靴を脱ぐのが面倒だったので,家の中には入らなかったが,縁側から家の中を覗かせて貰う.
資料5の解説によると,新島襄は江戸安中藩上屋敷(一ッ橋)で生まれた.18歳のとき,幕府の海軍操練所に入学,数学,航海術,英語などを学ぶ.1864年,函館からボストンに渡り,大学,神学校で学んだ.帰国後,安中に住む両親の家で再開する.この家は新島襄の両親の家である.この家はその後解体され横川関所番小屋として使われていたものだという.
なお,新島襄は同志社大学の創始者としても知られている.
<新島襄旧宅>
<杉並木とその周辺>
■素晴らしい杉並木
新島襄旧宅から往路を辿って,再び中山道に戻る.そして暫くの間,中山道を西南西に歩き続ける.
10時55分,安中総合学園高校の前を通過する.ここで国道18号線と交差する.
11時を過ぎる頃,前方に杉並木が見え始める.私は杉並木を見通した写真をどうしても撮りたかったので,これまで終始私の前を歩いておられるAさんに,ほんの5分ほど私の後ろに回るようにお願いして,私が先頭に出る.そして,道路の両側に並ぶ見事な杉並木の写真を撮る.その写真が下の写真である.
余談になるが・・・・昨年,私は某学会で「絆」の構造と情報システムに関する一寸した研究発表をしたことがある.それ以来,絆って一体何だとか,コンピューターや情報通信が絆にどのような影響や役割を果たしているかについてのモデル化に興味を持っている(実際にこんなことに興味を持っても,何処まで役立つかは疑問だが・・・).
もともと「絆」は牛,馬,犬などを繋いでおく綱を意味している.私にはそんな背景があったので,Aさんに5分ほど,私を列の前に行かせてくれとお願いしたときに,この絆から妙なことを連想して,一人でニヤニヤしてしまう.でも,その内容は・・・伏せておこう.
話を杉並木に戻そう.
資料4(p.17)によると,1844年(天保15年)には,ここに700本を越える杉並木があったと伝えられ,日光の杉並木に比喩されるほどの規模だったようである.でも,今では十数本の杉が残っているに過ぎない.残念なことである.
<素晴らしい杉並木>
■原市村戸長役場跡
11時19分,原市村戸長役場跡を通過する.立派な門構えだが,中には普通の住宅が建っている.手許の資料では,詳しいことは分からない.
<原市村戸長役場跡>
■原市高札場跡(茶屋本陣跡)
11時22分,明治天皇原市御小休所に到着する.ここは原市高札場跡であり,茶屋本陣があったところだという.
<原市高札場跡>
■真光寺
11時24分,真光寺に到着する.真言宗の寺のようである.だだっ広い境内の奥に小さなお堂らしい建物がある.その脇に梵鐘が置かれている.
この寺の詳しいことは,手許の資料では不明.ただ,資料4(p.17)には,この寺は既に廃寺になっているが,「時の鐘」だけが残っていると書いてある.
<真光寺>
<八本木地区の社寺史跡>
■八本木旧立場茶屋
11時40分,進行方向左手に立派な建物が見えてくる.建物の前に「八本木旧立場茶屋」という案内杭が立っている.
早速写真を撮るが,昼時とあって,頭の上から日光が差し込んでしまい,写真は日光を見事に被ってしまう.立派な建物だが,それほど古い建物のようでもない.
辺りに何の説明板もないので,詳しいことは分からないが,地図を見ると,この辺りは八本木という所らしい.
霊によって,「まあ,いいか・・・」で通過する.
<八本木旧立場茶屋>
■八木延命地蔵尊
11時40分,地蔵堂に到着する.簡素な門(鳥居かな?)の直ぐ奥に赤色の屋根の地蔵堂が建っている.境内入口に「安中市指定重要文化財地蔵菩薩像」と刻字された立派な石柱が立っている.重要文化財ならば拝見しようかと思うが,傍らにある案内文を見て,
「こりゃダメだ! 到底拝観できない・・」
と諦める.なぜならばご開帳は100年に1回だけと書いてある.
案内板の説明によると,ここの地蔵は八本木延命地蔵尊という.この地蔵菩薩像は1525年(大永5年)松井田小屋城主安中忠清が故郷越後国柴田より近戸明神を城の守護仏として勧請した.像は寄木造り,室町初期に作られたものと推定されているそうである.中山道を往来した大名も,ここでは下乗下馬して参詣したと伝えられ,霊験あらたかな秘仏である.でも100年に1度の開帳では待てないので通過する.
<地蔵堂>
■聖徳太子孝養の像と庚申石祠
11時41分,聖徳太子孝養の像と庚申石祠に到着する.
それぞれに案内板があるが,聖徳太子像の方は良く読めないので,読むのを省略する.
一方,庚申石祠の方は,安中最古のもので,1625年(寛永2年)に作られたもののようである.
なお,説明板には庚申信仰の一般的な説明が書いてあるだけなので,ここでは引用を省略する.
<聖徳太子像> <庚申石祠>
■雄和尚之墓
庚申石祠の近くに,(この字難しい字で,正しいかどうか分からない.多分間違っている)雄和尚之墓がある.「」は,鋏に似たような難解な漢字.私のパソコンソフトでは一寸拾い出すのが困難な字である.私には,勿論,何て読むのかも分からない.この方は満福寺第27世
住職であった.享保の改革のころ庶民の生活安定に尽力したため,生き仏として庶民の崇敬を集めた即身仏として伝えられているようである.
<雄和尚之墓>
<食堂「にこにこ」で昼食>
■定食500円の看板に釣られて・・
12時22分,進行方向左側に「定食500円」と書いてある看板を見付ける.これも成り行き,500円に釣られて,急遽,ここで昼食を摂ることにする.店の前には沢山の幟旗が立っていて実に旨そうである.
それほど大きな店ではないが,入口に「にこにこ」という暖簾が掛かっている.営業中である.良かった!
店に入る.誰も居ない.
「こんにちは・・・やっていますか」
と声を掛けるが,反応がない.
「どうしよう・・・出ますか・・・」
と相談しているところに,少々年配の女将が玄関から入ってくる.
「いらっしゃい・・・」
と私達に挨拶する.どうやら近くまで昼食の配達に行っていたようである.
<食堂「にこにこ」>
■ありゃ!・・・850円!
さてメニューを見て注文となる.
「・・・500円の定食は平日だけなので,今日はないです・・・」
“ありゃ!・・・当てが外れた,” でも今更仕方がない.私は600円也の野菜炒め定食を注文する.
まず最初に出てきたのが写真の料理.その後,次々に漬物や酢の物の小鉢が出てくるが,女将1人で,私達4人分の料理を作るので,中々埒があかない.
魚の名前が沢山書いてある湯飲みを眺めながら,ひたすら次の料理が出てくるのを待つ.
その間,“この字何と読むの・・”で暇を潰す.そのとき,私は俄に“いたずら”を思いつく.
「・・・この湯飲みに書いてない「魚」偏の字がありますよ・・・「魚」偏に「羊」っていう字は何ですか?」
「ええっ! そんな字あるんですか? どんな魚?」
私は内心で“引っかかった・・・へへへ”とほくそ笑む.
「朝鮮の「鮮」ですよ.別に“魚”だとは言っていませんよ・・」
「な~んだ!」
途端に,座が白ける.
実は,この下りは,私のオリジナルではない.私が学生時代に友人から引っかけられたことがある話である.遙か数十年前に引っかけられた話で,今元を返したような気分である.
食事が終わって,いよいよお勘定.
「・・・肉が入っているから,840円です・・・」
500円の定食を摂るつもりで店に入ったのに,500円はないというので,600円の定食にしたつもりだったのに,850円とは・・・
でも食べてしまったものは仕方がない.たった250円のことでクレームしても気分が悪くなるだけだ.私は即座に了承して850円也を支払う.でも,毎食こんなに費用を掛けていたら大変なことになるので,今後はもう少し節約することにしようと心に決める.
雑談をしている内に,店の女将とも打ち解けてくる.
「・・・私が若かった頃は,あそこの杉並木は,そりゃ~もう,見事でしたよ.あの道を杉の枝が天井を覆うように一杯でしたよ・・・・今は見る影もなくなっちゃった・・」
と残念がる.
<850円也の定食.この他にお新香,酢の物の小鉢が付く>
■役に立つ案内リーフレットを頂戴する
女将が,
「あなたたち遠くから来たの・・・地元の火とではないですね・・」
と私達に聞く.
江戸日本橋から中山道を辿って歩いていると答える.
「そんなら,この資料を持って行きなさい・・・」
ということで,3種類の案内リーフレットを全員に分けてくれる.
なかなか素晴らしい資料である.これからの旅にも大助かりである.500円が850円になってしまって,少々ご機嫌斜めだった私も資料を貰ってニコニコ.さすがに「にこにこ」食堂さんである.皆が“win,win,”である.
これらの資料は極めて見やすく,大変重宝である(資料5,6,7).
■昼食を終えて・・・
昼食を終えて,12時01分に「にこにこ」食堂を出発する.
女将が愛想良く玄関まで見送りに出る.機嫌が直った私もにこやかに挨拶して中山道の旅を続ける.
<「にこにこ」食堂の前で>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;安中市産業部商工観光課,発行年代未詳,「旧道日和」(板鼻そして歴史薫る安中)安中市観光協会
資料6;安中市産業部商工観光課,発行年代未詳,「「旧道日和」(杉の並木原市から横川)安中市観光協会
資料7;安中市産業部商工観光課,発行年代未詳,「「旧道日和」(旧中仙道碓氷峠から峠越え道)安中市観光協会
資料8;http://renkyuji.jp/renkyuji_gree.html
資料9;http://5.pro.tok2.com/~tetsuyosie/gunma/annakasi/atago/atago.html
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e1956a461dfc7f4df0eb58197d1b96bc
「中山道六十九宿」第6回目の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/9bc151d2fe8b31d9e4cfa2d6c13a2fc4
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
※記事の正確さは全く保証しません.
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