<かじや平の石仏群>
中山道六十九宿巡り(第12回);第1日目(2);上宿から東町間ノ宿へ
(五十三次洛遊会)
2012年4月6日(金)~8日(月)
第1日目;2012年4月6日(金) つづき
<中津川宿の地図>
※再掲
<上宿>
■坂本駅
8時55分に駒場村高札場を通過した私たちは,8時57分に上宿橋を渡る.橋を渡って2分ほどで,坂本駅跡に到着する.この辺りから長い上り勾配の「こでの木坂」が始まる.
路傍に立っている案内板によると,「古代,東山道は,近江から美濃国坂本駅を経て信濃国阿智駅へと
通じていたが,この二つの駅の間は距離が長い上に,急峻な神坂峠越え(標高1595メートル)のある難所だった.このため,両駅には特例として通常の2~3倍,300疋の駅馬が用意され,また,輸送にあたる駅子にも免税の恩典が与えられていた.その坂本駅が置かれていた場所が,この辺りであったと思われる」とのこと.
様もと駅の案内板の脇に「こでの木(小手木)坂」の案内板が立っている.いよいよ「こての木坂に」差し掛かる.
<坂本駅の跡>
■双頭一身道祖神
9時02分,双頭一身道祖神に到着する.坂道の進行方向左手の土手の上にたくさんの石碑が並んでいるが,その中に双頭一身道祖神が立っている,この道祖神は苗木への道標も兼ねている.なお,苗木は街道から城下町苗木へ1里の一にある(資料1,p.155).
<双頭一身道祖神>
■上宿の一里塚跡
9時04分,上宿の一里塚跡に到着する.江戸から85番目の一里塚である.
近くに立つ案内板によると,中津川市内には一里塚が4箇所にあるという.現在,南側の塚は消滅し,北側の塚(写真)は,1934年(昭和9年)に復元されたもので,往時の大きさの3分の1だという.
<上宿の一里塚>
■小石川立場跡;コンビニで一休み
ダラダラと長い登り坂が続く.歩いている内にイヤになってくる.前方には小高い丘の稜線が見えている.丘の中腹に沿って自動車道路が続いているのが見える.私たちが歩いている道路は,大きく右にカーブしながら,この自動車道路の路肩を登っている.25000分の1の地図を見ると,この辺りの標高は349メートル.資料を見ると,進行方向右手にある久保田医院が目印になっている.でも,この医院の所在が分からないまま,通過してしまったようである.
やがて,右に大回りするカーブに差し掛かると,右手の方から盛んに鶏の啼き声が聞こえてくる.こんもりとした林に遮られて所在は分からないが,どうやらかなり大きな養鶏場があるようだ.
やがて,先ほど見えていた自動車道路に突き当たる.この道路は国道(県道かな?)257号線と交差する取り付け道路のようである.
国道を左に曲がる.
国道沿いに西南西の方向に少しばかり歩くと,進行方向右手にコンビニがある.ここで,買い物兼トイレ休憩を取る.
地図で確かめると,どうやら,このコンビニは小石川立場跡にあるらしい(未確認).また,資料にはタイムリーインター店と書いてある.
<9時13分,石塔群の前を通る>
<コンビニに立ち寄る> <国道19号線添いに歩く>
<千旦木村を行く>
■面影がなくなった中山道
コンビニで10分ほど休憩を取てから,再び歩き出す.国道19号線沿いの道をひたすら歩く.やがて,大きなインターチェンジに到着する.ここで歩道橋と地下道を通って,中央本線沿いの道に入る.
近くの「歴史の道中山道案内」という案内板がある.そこには,こんなことが画いてある.
「現在地付近は,山村甚兵衛等木曽衆の領地であった千旦林村(村高552石)と手金野村(村嵩446石)との境になっていました.ここから大井宿に向かって約400メートル間は,道路改良のため昔の中山道の面影が残しておりません.近くの中山道筋には茶屋等が営まれた小石塚の立場跡があり,1626年(寛永3年)煮立てられた板碑も移設されています.」
■六地蔵石幢
舗装はしてあるが,少し長閑な道に入る.
9時46分,道路際にある六地蔵石幢に到着する.六地蔵石幢のすぐ前がコミュニティバスの停留所になっている.折悪しく,丁度このときバスが到着する.バスに乗る人が数名居られるので,少々混雑してしまう.地元に方に迷惑を掛けたくないので,全体の写真を撮るのは遠慮する.
案内板の説明によると,この六地蔵は,ここから南へ800メートルほどのところにある大林寺の入口にあり,1657年(明暦3年)に造立されたものとのことである.
<六地蔵の説明板>
<コミュニティバスが到着する>
■坂本神社八幡宮と常夜灯
広々とした長閑な道のあちこちの民家が点在している.
9時53分,進行方向右手に「坂本神社八幡宮」と酷似した立派な石塔が立っている.石塔から奥にある神社まで,参道が続いている.神社が少々遠いところにあるので,参拝は省略する.
参道入口の左側に立派な常夜灯が数基置かれている.
<坂本神社八幡神社>
<常夜灯>
■千旦村の高札場跡
9時54分,千旦村の高札場跡を通過する.石杭が1本立っているだけ.
広々とした畠の向こうを中央本線の電車がカタカタと通り過ぎる.
<千旦村の高札場跡> <中央本線の電車が通り過ぎる>
<中平の集落を行く>
■東巣橋を渡る
9時58分,東巣橋を渡る.
橋を渡ってすぐに道路が二手に分岐する.私たちは向かって左側の細い道に入る.分岐近くにバス停藪下がある.
<東巣橋を渡る> <旧道に入る>
■中平の常夜灯と神明神社
10時05分,中平の常夜灯に到着する.立派な常夜灯である.
周囲には瓦葺きの立派な民家が建ち並んでいる.とても裕福な集落だなという印象を受ける.
<秋葉常夜灯>
■中平神明神社
10時08分,中平神明社参道入口に到着する.入口には簡素な案内板が立っている.この先に草むした参道が続いている.社殿までどうやら遠そうなので,参拝は省略する.
参道入口に立つ案内板の説明によると,ここには神明神社の他に,津島神社,妙見社が祀られている.神明神社には天照大神,対馬神社には牛頭天王,妙見社には妙見菩薩が祀られているという.
<中平神明社参道入口;所々に簡素な案内板が立っている>
■中原のじゅん天様
10時10分,道路端に石仏と石塔が立っている.何だろう?
良く分からないが,資料を照らし合わせてみると,「中原のじゅん天様」かもしれない.
<中原の石仏>
■将監塚
10時13分,将監塚に到着する.ちょっとした空き地に案内板が立っている.
案内板の説明によると,ここは2代目美濃代官岡田将監の塚である.岡田将監は1613年(慶長18年)から1631年(寛永8年)まで代官を務めた人物である.
<将監塚>
■三ツ家の一里塚跡
10時16分,自動車道路下の地下道を潜る.
地下道を出た所に,三ツ家の一里塚跡がある.江戸日本橋から86番目の一里塚である.
<三ツ家の一里塚跡>
■馬頭観音と坂本立場跡
三ツ家一里塚跡を通過して,もう一度,地下道を潜る.
10時19分,馬頭観音,そして,10時23分,坂本立場跡を通過する.
<馬頭観音>
<坂本立場跡>
■坂本橋を渡る
再び地下道を潜って,10時26分,坂本橋を渡る.
私たちは,いよいよ東町間ノ宿に入る.
<坂本橋を渡る>
(つづく)
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/e4a2e85f0dc68f937290bfe8bf6262fe
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2887e06550198fb2e1fa7f7c168cf97c
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