6月12日、弟が旅立った。64歳、肺がんだった。
亡くなる少し前、「残念やけどお姉ちゃんより先逝くわ!」
と言っていた。
「残された時間は年単位だと思っていたけど、月単位だと思う。」
と言ってから約半月、呼吸を楽にするための入院だったが
家に戻ることは出来なかった。
父は肺気腫で酸素吸入の器機に慣れるためということで入院したが
あれよあれよという間に亡くなってしまった。
弟は今回の入院で
父のようになるかもしれないと口にしていたそうである。
前日、家族としっかり話が出来ていたのに次の日急変し、
息を引き取った。
弟は三人兄弟の末っ子として生まれた。
とても、しっかりしていて頼りがいがある弟だったが、
やはり子どもの頃は甘えん坊で、
よく上の兄と夜寝るときに母を奪い合った。
あだ名が『おったかパイパイちゃん』だった。
小さい頃、ねじ回しが好きで「ネジマーチュ」と言って、
何にでもねじ回しを差し込んでいた。
ある時、コンセントに突っ込んでしまい感電したことがある。
私も小学3年生までオネショをしていたが、
弟はもっとで、6年生の修学旅行は家族中ヒヤヒヤした。
後ろのサーフボードは兄のものだが、
本人も兄と一緒に波乗りをしていた。
スキューバダイビングは最近までやっていた。
釣りも好きだった。
中学校ではアマチュア無線のクラブに入っていたが、
コンピュータ等のハード系の会社に就職した。
恋をして…
家族が出来た。
忙しい中、よくスキーや遊園地や海水浴などいろいろなところへ
連れて行っていた。
子どもたちからは 他のどの家族よりも多かったと思うと。
これは17年前のUSJ。
私も一緒に行った。
一時期、ディズニーランドの近くに住んでいたことがあり、
私も何度か行くことが出来た。
弟は旅が好きで海外にもよく出掛けていた。
マチュ・ピチュやモン・サン=ミシェル、
アンコール・ワットなど。
何年か前、日本の世界遺産は全て行ったと嬉しそうに話していた。
毎日散歩し、いっしょに寝ていたきり丸。
世界遺産の旅の知床にも連れて行った。
私の家にもいっしょに来たことがある。
これは我が家が引っ越した記念の植樹。
単身赴任で隣接県に住んでいたのでよく母に会いに来ていた。
気前がよく、テレビやパソコンなどを買ってくれた。
とても器用でいろんな所の修理をしてくれた。
(自分の家では業者いらずで何でも直したが
ビルトインコンロを入れ替えて注意を受けたことも。)
料理も得意で、あるものでささっと作ってくれた。
とにかく、身が軽かった。
(体重は110㎏を優に越えていたが…)
弟は会社で役員になったがその任が重かったのか、
長い間、「辞めたい、辞めたい」と言っていたが、
ある日、突然仕事に行けなくなった。
これは4年前の家族写真。
二人とも母のところからは遠く、別々にはよく来てくれていたが、
久しぶりに揃った。
2020.8.15
田舎のお墓参りも毎年行ってくれていた。
結構、遠くて大変だったと思う。
おととしの次男の結婚式の時の写真。
まさか、2年後にこの世からいなくなっているとは
誰も思っていなかった。
でも、癌はこの頃には出来ていたと想像する。
タバコを吸っていたのでよく咳込んでいた。
間質性肺炎ということで治療を受けていた。
昨年11月、弟からメールが来た。
肺癌が見つかったがすでにステージ4で抗がん剤治療を開始したと。
何度も辛い抗がん剤治療を受けたが、
酷くなるばかりで
最近では「息が苦しく溺れているようだ。」と話し ていた。
今月8日に呼吸が楽になるように理学療法を受けるからと入院。
少しでも楽になることを期待していた。
食べられなくなって
みるみる体重が落ちていった時、
「喜んでいる自分がいて複雑な心境だ。」と言っていた。
入院して4日後に突然旅立ってしまった。
友人が「死はあっけらかんとやって来る。」
と言っていたがまさにその通りだった。
母には弟の病気のことは言っていなかった。
その事を本人に言うと
「いいよ。僕が少しでもよくなったら、
そっちに行って僕から話すよ。」
と言っていた。
そう出来ることを励みに病と向き合っていたのだろう。
今年の母の日には動画でメッセージを送ってくれた。
治療で浮腫んだ顔を見て、母は「太ったねえ。」と言っていた。
こちらからも弟に母のお礼のメッセージを動画で送った。
亡くなったことを母に伝えるかどうか、もう一人の弟に相談すると
「今は施設に入ったばかりで落ち着いていないので
言わないでおこう。
そちらに行った時、僕から話す。」
と言ってくれた。
さて!これからどう生きていけばよいか、
否が応でも突きつけられらる。
私は延命治療は受けないと公言しておこう!
前の犬ルルは乳癌が鼻、そして、歯茎に転移した。
獣医師に安楽死を勧められたが決断できなかった。
でも、今ならナナが苦しみだし、手の施しようがなくなったら
安楽死を受け入れようと思う。
苦しい状態で生き長らえるのは辛い。
自分のことが出来ないようになり、回りのことに
思いをはせられなくなる前に何をしなくてはならないか、
今はこれが大きな課題。
健康寿命をいかにのばすかを真剣に考えよう。
いい思い出をたくさん作ろう。
それが最期の自分を支えてくれると思うから。
達成感や充実感を味わえるように努力したい。
世の中に対してもアンテナを張って
出来ることは少しでも力を出したい。
今回、お通夜で甥たちから弟のことについて、たくさん話が聞けた。
「父を尊敬している。」との言葉が嬉しかった。
物知りで知らないジャンルがないぐらいだと
子どもたちから見えていたそうだ。
芸能から芸術、政治・経済まで。
「勉強をしなさい。」とは言わなかったが、
何でも知っていて、何でも出来る父を見ていて格好いいと思ったと。
自分もそうなりたいといろんなことに向き合ううちに
勉強が好きになっていたそうだ。
父の欠点をあげるとすると?
大きなイビキ!
好きな音楽はイーグルスのテイク・イット・イージーの曲と
フジコ・ヘミング演奏のラ・カンパネラだった。