クローバー 匍匐(ほふく) 福福

末梢神経鞘腫瘍で右前足と肩甲骨を切断したココのことや身の回りの出来事など日々感じたことを発信します。

母の旅立ち

2023-10-11 21:58:04 | 

母は10月2日午後5時11分に息を引き取りました。

告別式は10月4日でした。身内だけで見送りました。





病院で湯灌をする時立ち会い、私も手や足や背中、髪も洗いました。

化粧もしましたが口紅やファンデーションの色などを選ばせてくれました。

手際よく、しかも丁寧に綺麗にして下さいました。

何より嬉しかったのは母の生前のいろいろな話を聞いてくださったことです。

私のblogまで見て下さいました。





葬儀場でも湯灌をしました。病院でしたことを伝えましたが、浴衣だったので白装束に着替えてはどうかとのことでした。

せっかく、病院で私もいっしょに綺麗に湯灌したのにそれが無になったように感じました。

キッパリと断れば良かったと後から思いました。

母はそれはそれは綺麗でした。納棺師の方も「とても91歳には見えない。」と言っておられました。


母は笑顔が印象的な人でした。いろんな方からよく褒められました。






質素なお葬式でしたが、身内だけということもあって、温かく和やかな式でした。

初めて喪主を務めることになりました。

挨拶をするのが一番の大役でしたが、身内だけなのでそれほど気を張らずにすみました。





母の生前の写真をたくさん飾らせてもらいました。

今回の写真選びの中で、母が職場で働いている時のものを見つけました。

こうして働いて、私たちを育ててくれていたのだなと思いました。

母は父が転職を繰り返し、お金に苦労して子どもたちを育ててくれました。


でも、弱音や愚痴を吐くことはありませんでした。いつも明るい母でした。


母は家事、仕事、子育ての合間を縫ってたくさんの本を読みました。


『本棚が私の宝物』と言っていました。音楽、美術鑑賞も好きでした。





母のことを思い出すたびに、その時の感覚や光景などが思い出されます。


と同時にもうその時には戻れない虚しさ、やるせなさも感じます。


私と母はもともと仲が良かったのですが、あることをきっかけに私は母のすることなすことに腹が立って腹が立って、どうしょうもない時期が長く続きました。


私は思春期の反抗期はなかったのに、今頃(当時)になって反抗期を迎えたかのようだと周りに話していました。




それが収まったのは母が弱って来てからです。


なんとおとな気のないことをして来たのだろうと申し訳なく思いました。


そのことに気付いてから罪滅ぼしとして、母に出来るだけのことをしようと思うようになりました。


何でもっと早く出来なかったのかと思います。

とても尊敬する母でした。






とっても悲しい

2023-09-27 23:44:46 | 

今日(9月27日)母のお見舞いに行きました。

母は先週と違って土気色をしていました。

また、今までの病衣ではなく、白いガーゼのようなものを巻かれていました。

何か理由はあったのでしょうが、昨日はっきりと点滴だけにしてくださいと言ったあとなので複雑な気持ちになりました。(あとで確認すると入浴の準備だったそうです。)





24年前、母と私が行った中央ヨーロッパのアルバムを見せました。

目はアルバムを見ているようですが全く反応がありません。





顔を見ると吐いたのか薄い血の混じった液が口の周りに付いていました。

ティッシュを探しましたがなかったので持っていたもので拭きました。

それを捨てようとするとゴミ箱が見あたりません。


新型のヘリコプター?

すると同室の患者さんが「首がちぎれそう。呼んでください。」と大きな声で言われます。詰所に伝えに行きました。

その時にティッシュとゴミ箱がないことを言いました。
すぐに持って来てくれました。





母にアルバムを見せていると酸素の管の一つが鼻から外れていることに気付きました。

するとまた、同室の患者さんが「ベットを上げて!」と言われます。





10分しかないので私はどうしたらいいか迷いました。

あと少しの時間しかなかったので私は写真の中の母と私と母の大親友の写っているところを指さして見せました。

すぐにピピピとなりました。





タイマーを持って詰所に行き、まず、同室の方がベットを高くしてほしいと言っておられることを伝えました。

そして、母の酸素の管(鼻の穴に合わせて二つ)のうち一つが外れていることを看護師に伝えました。





母のところに来た看護師は驚いたことに「もう直してくださったのですか?」と私に聞くではありませんか?

「どうしたらいいか分からないので触っていません。」というと改めて母の顔を見て酸素のチューブを入れ直していました。





もしかして、母が土気色をしてしんどそうにしていたのは酸素が足りなかったからだろうかということが頭をよぎりました。

悲しくなりました。
もう、死に行くものには手をかけるつもりはないのかと思ってしまいました。

心安らぐ最期を看取ってほしいです。





実は昨日、主治医から「また一から白湯を入れます。」と電話がありました。

「先日(9月16日)、もう、経管栄養(白湯から)をやめて点滴だけにするということになったのではないですか?」というと「その辺のことをハッキリ言われてなかったので…」というので「もう点滴だけにしてくださって結構です。」と伝えました。(当日、排液が0になったらチューブを抜くと言われました。)

人の命を預かるのだから念には念を入れて慎重にしているのかも知れません。

でも、家族があれだけ大きな決断をしたことをしっかり受け止めてくれているのだろうかと思いました。

本当に患者や家族に寄り添ってくれているのでしょうか?

この病院の理念は『やさしく“生命”をまもる』です。





19日に行った時、母がココを抱いている写真を一番よく見えるところに飾ってくれていました。とても、嬉しかったです。

こういう小さな心遣いがどんなに患者や家族の心を優しく包んでくれることでしょう!

今日、見ると写真は他のものといっしょに下の台に積まれていて、母から見えないようになっていました。



撮影:上神谷 2023.9.26





敬老の日と決断

2023-09-18 16:58:35 | 
敬老の日の贈り物をしました。

何も食べられない、外に出かけられない母に何をしようかと考えて、お花を送ることにしました。

病院に確認すると、生の花ではなくケースに入ったものにしてほしいとのことでプリザーブドフラワーにしました。

買ったものの、ガラスの入れ物に入っているので、落ちて割れるのではないかと思い、一昨年亡くなった弟のために仏壇に備えたプリザーブドフラワーの入れ物があったので、それに入れました。





メッセージも悩みました。

元気になってとか長生きしてとかは今の母の状況を見ると書けません。

日頃の感謝の気持を込めて・・・と書きました。





テレビの裏だけど、母から見えるところに置きました。

ここなら、落ちにくいと思います。

この日は左目が開かないようでした。


9月16日に弟と二人でお見舞いに行った時、冗談好きの弟が『おふくろに似て男前に産んでくれてありがとう。』とホワイトボードに書いて見せたら、母が笑いました。

久しぶりの吹き出すような笑いに弟はとても喜びました。

もちろん私も嬉しかったです。

この頃、私たちが行ってもだんだん目をつぶっていることが多くなって来ました。

それに無表情な感じがします。

だから、余計に嬉しく思いました。


 

私たちは行くたびに母の手を握っています。

その日によって、暖かい時と冷たい時があります。

時々母の髪をヘアブラシでとかしています。

10分はあっという間です。





母に大親友からいただいた絵葉書を見せるとずうっと見入っていました。

この方とは20年くらいパソコンでメールのやり取りをしていましたが全部印刷して箱の中に大切にしまっています。

文学のこと、芸術のことでとても気が合うようでした。

同じツアーでこちらのご夫婦とご一緒した時、食事の時などに会話をしていましたがそのレベルの高さに私はついていけませんでした。





16日、主治医とこれからのことを話し合いました。

今後は積極的な治療はせずに点滴のみにすると決断したと伝えました。

1ヶ月くらい前まではもしかしたら回復するのではないかと希望を持っていましたが、来るたびに衰弱していっているように見える母にもう頑張ってもらうのはかわいそうかなと思うようになりました。

主治医は鼻から胃に白湯を入れ、それが腸に入ったら栄養を入れると言っていましたが、母は白湯の段階で何度も戻し、また一からですと同じことを繰り返して来ました。

私たちはそういう治療をするということは栄養が入る可能性があるのかと期待をしていましたが、後から聞くと主治医は私が経管栄養を望んでいたから続けて来たと言っていました。

8月末、主治医から、「楽にしてあげたらどうですか?」「今回だめだったらもう一回試しますか?それがだめだったらもう一回試しますか?どこまで試しますか?」と言われた時、決断を迫られているようで辛いと言いました。

それは何がなんでも経管栄養を続けてほしいというのではなく、そのような言い方が辛かったのです。

その後、こちらから「半分覚悟はできている。」「元気そうに見えるともうちょっと頑張れるかなと思うが頑張らせて過ぎたらいけないと思う。」と主治医に伝えてきました。

でも、今回ももう一度スタートするかどうか確認しないで再開しようとしていました。

自分の母親にだったらしないと言っていました。

私は少し前、治療法を変えたら、もしかしたら違う経過を辿るのではないかと他の病院をネットで探したり、役所や手術した病院に電話をして聞いてみようかと思いました。

弟は私のいうことは分かるが、今の状態の母を動かすのはかわいそうだということで諦めました。

「点滴だけにすると1〜2月と考えておいてください。」とのことでしたが、「その人の生命力であっけなく最期を迎えられる方もおられるし、最後の最後まで普通に会話しながら最期をスーッと迎えられる方もいる。」とのことでした。

排液を見ながら、排液が0になったら、今まで白湯を入れていたチューブを抜くということです。





私たちが帰る時、手を振って見送ってくれた母。

この時も弟はとても喜びました。一旦病室を出ましたが、私が「手を振ってくれたよ!」というとあわてて戻って手を振っていました。





これは今年の3月、母の通っていたデイサービスで91歳の誕生日を祝ってもらった時の写真です。

こうして、毎月2、3枚の写真を送って来てくれました。

とってもいいところだったので、新しい施設でも行かせてほしいと何度もお願いしましたが叶いませんでした。

最期をどう迎えるか・・・

2023-09-10 15:07:39 | 

母を見ていると、自分だったらどんな最期を迎えたいのだろうと思う。

母は食道胃接合部がんによる入院・手術をしました。
せっかく立てた『お寿司を食べること』という目標もかなわず、5月中旬から食べたのはデラウエア4粒だけ・・・。

療養型病院に移っても、点滴か経管によるポカリスエットのようなアクアサポートを入れるだけでした。

腸閉塞を起こしているとのことで、腸まで届かず、液が胃に溜まると戻してしまいます。





9月2日に主治医と話した時、

こちらから
「私どもは半分覚悟はできている。ちょっとでも希望があるのだったら、できるだけ治療は続けてほしい。誤嚥性肺炎で苦しむことはないようにしてあげたい。」

「今日は元気そうに見える。手を振ったり、ニコッと笑ったり、あの姿を見るともうちょっと頑張れるかなと思ってしまう。かといって、頑張らせ過ぎたらいけないなと思うし、匙加減が難しい。」





それに対して、主治医からは
「吐くと逆流性食道炎や誤嚥性肺炎を起こし、とても苦しくなる。」

「より良くしてあげたいというのは当たり前なこと。かすかな希望を叶えるために、ものすごく大きな代償を払うことになる。やりすぎた時はちょっと悪くなるのではなく、台無しになってしまう。」

「その覚悟がありますか?」

「水分だけでうまく行ったら、1か月か2か月。」

「年齢相応の衰えというものもあるので、それに逆行してなんとかすること自体、本人には可哀想な面もある。」

「鼻からチューブが入っている。それだけでも辛い。」

病院としては苦痛のない療養生活を送っていただければと思っている。それがひいてはご家族のため。」

「無理をさせ、やり過ぎてしまうと1か月寿命が延びたとしても、苦痛に満ちたもの。苦しみながら最期を迎えましたということになる。」

「どう選択するのか、どっちが正しいかどうかではない。冷静な立場で判断しないといけない。」

「あとはご家族がこうしてあげてよかったなと思う方法を選んであげてください。」とのことでした。





私たちは主治医の言うことは理解しているつもりです。

でも、今のところ吐いたとしても、誤嚥性肺炎にもなっていないし、逆流性食道炎にもなっていません。

手術をした病院では何度か誤嚥性肺炎になり、高熱も出ました。






7月14日、今の療養型病院に行って説明を受けた時、母を見ていないうちから「お母さんは高齢な上に食べないこと、CRPなどの数とが悪いことなどから、入院してもすぐに亡くなってしまうかも知れない。」と言われました。

その後、何度も何度もこれ以上処置を続けると最悪の事態になると言われて来ましたが、今のところ、胃から腸に水分がいかず、少しもどすことはありますが、波はあっても比較的元気そうに見えます。

悪くなる悪くなると言われるとそうなってほしくないという気持ちが湧いてきます。

ただ、四六時中ベットに寝たまま、何も食べずに何もせず生きているのが、人間らしい生き方なのかと考えます。

私たち家族は母に終末期をどう迎えたいのか聞いていませんでした。今となっては弱っている母に聞くことは躊躇します。

もっと母が元気なうちに、施設に入る前に聞いておけば良かったと思います。
なので、母にとって一番いい方法を選択したいと思っています。






9月6日にお見舞いに行った時、私の持って行った写真をテレビの前に並べてくださっていました。それまではベットに置いたままでした。

細やかな配慮をしてくださる看護師さんがおられることが嬉しかったです。

左端の絵葉書はチェコの首都プラハにあるカレル橋。

24年前、母と中央ヨーロッパに行った時、同じツアーでご一緒だった方からのものです。

最初に出会った地の絵葉書を送ってくださるなんて、やはり素敵な方だなと思いました。

この旅の中で二人は意気投合して、それから、ずっとメールや贈り物のやりとりなどをしていました。

この頃、連絡がないように思い電話をすると母は耳が遠くなって、自分の伝えたいことだけ言ったらすぐに切ってしまったり、パソコンも使わなくなってうまくコミュニケーションが取れなくなったりして、疎遠になっていたようでした。

「老いる」とこういうこともあるのだと思いました。






母の容態を連絡すると「足が良くないので、お見舞いに行けないけれど絵葉書を書きます。」と送って来てくださいました。

大きな字で『応援しています。』と書いてくださっていました。

母はきっととても嬉しかったと思います。

8日にはテレビを見ていたので、テレビが見やすいように並べ直しました。この病院でテレビを見ている母を見るのは初めてでした。




これを書いている時に厚生労働省と全日本病院協会の『人生最終段階における医療・ケアに関するガイドライン』を見つけました。

どちらにも本人の人生観・価値観を含め、意思を確認することの重要性が繰り返し、書かれていました。本人の気持ちが変わることがあるので、一度ではなく何回も聞くこと、そして、それを家族や代弁者と話し合い、文書で残しておくことが大切だと書かれていました。

また「本人の生命予後に関する医学的判断は医師を中心とする複数の専門職種の医療従事者から構成される医療・ケアチームによって行う。」(厚労省)

「治療により、回復が期待できない状態と医師が判断した場合、他の医師、看護師等と家族を交えて交えて話し合う。」(病院協会)
とありました。

これらのことについて病院と話し合ってみたいと思います。




2014.09.14 フォレストガーデン



医師との信頼関係

2023-08-30 21:14:45 | 

8月28日、弟と母の病院へ行きました。
この日の母は起こすのを躊躇うほど辛そうでした。

声をかけると目を覚まし、弟が覗き込むとにっこりしました。そして、持っていったココの印刷した写真を見せると嬉しそうでした。

でも、その後横を向いたままでした。





先生から、今までの経過を初めから話してもらいました。

私からは弟にかいつまんで話して来ましたが、弟は直に聞きたかったようです。


弟が一緒だったからでしょうか?前回と違って、穏やかに丁寧に話されました。

途中、先生が私に「大丈夫ですか?振えていますが…」と聞かれました。
自覚のなかった私は驚きましたが、

「これは精神疾患の薬の副作用だと思います。」と答えました。


<母の経過については今回は置いておきます。>





私は「前回、お話しをしていただいた時、今のように穏やかに見通しを持って、お話ししてくださっていたら良かったのですが・・・」と切り出しました。

「楽にしてあげたらどうですか・・?」

「今回だめだったとしたら、もう一回試しますか?それがだめだったらもう一回試しますか?どこまで試しますか?」と言う言葉は強く決断を迫られているようで、家に帰ってから辛くて辛くて・・・。」

「それは楽に死なせてあげましょうと言う意味ではないですよ。」と先生は言われましたが、

「楽にしてあげたらどうですか?負担になる、苦痛になることをあえてしますか?」という言葉はもう治療はやめたらどうですか?と私には聞こえました。」

「母を崖の淵に立たせて、後ろから先生が私に『いつ押すのだ。』と言われているようなイメージが浮かんできた。」と言いました。

「そのあと、どんなに辛くなってしまうか・・・。家族の気持ちに寄り添ってほしい。」と言いました。

「本当に辛かった。これから先生とお付き合いしていけるのかと思うくらい。

母の終末期を迎えるにあたって、家族にどれくらい寄り添ってくれる
のかと不安に感じた。」というと

主治医から「誤解を与えることがあったら、申し訳なかったと思う。」と謝罪の言葉がありました。

今日は母の経過もよく、これからの治療方針なども希望が持てるもので、少し心が落ち着きました。





次の日の朝、主治医から電話があり、「誤解を与えてしまって申し訳なかった。」
「これからはもう少し優しく丁寧に話すようにする。」と言われました。

私の精神疾患にも気遣って、いろいろ聞いてくださいました。

「私には双極性障害II型と言う精神疾患があり、大きなストレスがかかると発症することがある。」

「昨年も入院した。発症するととても辛い。今も定期的に通院し、薬も飲んでいる。」

「母の看取りを冷静に見守ることができるのかとても不安に思っている。」と伝えました。





29日にも弟とお見舞いに行きました。

母は昨日と比べるとずいぶん元気そうで安心しました。行くなり母の方から手を振ってくれました。

弟と私は何度も母のミトンの中の手を握りました。

その後、また先生が来られ、今の状況がいいことを説明してくれました。

「今回のがんの手術は“お寿司を食べられることを目標にしよう。”と執刀医が言って臨んだものです。食べれないまま終わってしまうのはとても辛い。」と言うと

「希望を捨てることは全くない。ただ、希望を叶えるために無理をしたら、全体像をかえって悪くしてしまう。」とのことでした。

明日も来ると伝えると「その時は声をかけてください。」と言われ、とても気を遣われいるのだなと思いました。

今後も今のように寄り添っていただけるとありがたいと思います。





今回、自分の感じたこと、こちらの状況を主治医に直に伝えてよかったと思いました。

母がどこまで元気になるのか期待する反面、ある程度、元気になったとしても、ただ、ベットに寝たきりで過ごすことが母にとって幸せなのかを見極めた上で判断しなければならないと思っています。

でも、急かされると決断ができなくなります。



2022.08.26 中之島公園