クローバー 匍匐(ほふく) 福福

末梢神経鞘腫瘍で右前足と肩甲骨を切断したココのことや身の回りの出来事など日々感じたことを発信します。

アウシュビッツ②

2021-09-03 19:48:48 | 平和

以前、書いたアウシュビッツ①の続きです。

写真は1993年8月「アンネ・フランクを訪ねる旅」に
参加した際、私が写したものです。

文は青色が当時の私のメモ、
黒色が「平和のアトリエ」発行の『アウシュビッツの手紙』と
「毎日新聞社」発行の『ホロコースト 絶滅収容所の記憶 
パンと靴と未来』を参考に書いたものです。

♠︎  ♠︎  ♠︎

アウシュビッツ強制収容所が開かれたのは1940年6月。
初めはドイツ占領軍に反抗したり、レジスタンス運動に参加した
ポーランド人を入れるための強制収容所でした。

ヒットラーが政権を取ったころ、ドイツは混乱状態にありました。
町には、貧しい人や失業者があふれていました。
その不満をユダヤ人に向けて、反らそうとしたのです。
1942年1月ヨーロッパ中のユダヤ人を
根絶やしにすることを決めました。
 


ビルケナウ収容所はアウシュビッツ収容所の
西方約3キロのところに建てられました。
アウシュビッツ第二収容所と呼ばれていました。
収容バラック250以上、面積1750平方キロメートル。
収容人員は一番多い時には14万人にもなったそうです。
建設にはアウシュビッツの囚人たちが使われました。

アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツは
シレジア地方にあったドイツ軍需工場や鉱山・
製油所・実験農場などに囚人を送るための収容所で
40ヶ所に分散していました。

収容者の1日の食事1300~1700kcal
朝ー500ccのコーヒーと呼ばれた液体。
昼ー1ℓの腐った野菜で作られた水のようなスープ。
夕ー300〜350gの黒パン、30gのマーガリンと薬草の飲み物。

<働く>といっても奴隷のように働かされたのです。
12時間労働で、食事以外に休みはありません。
その上、早く急いで作業するように
カポ(伍長・頭などと訳されている)たちが
こん棒とムチを振るうのでした。
時には、走りながら働かされました。

収容所内トイレ(アウシュビッツ)


ビルケナウ収容所のトイレ
1人10秒という規則があった。
 
洗面所(アウシュビッツ)


ベッド(アウシュビッツ)


ビルケナウ収容所の内部

3段ベッドの一つの棚を男か女が8人で<眠る>ために使ったのでした。
3〜4人に一枚の毛布や藁ぶとん、洗うこともなかった衣服。
しらみやノミの攻撃、カポ(親分格の監視役)のどなり声、いざこざ。
暖房や防寒の措置のない中、歯の根の合わなかった夜、
蒸れと悪臭で眠れなかった夜・・・。
時にはチフスや赤痢、そして、皮膚病の蔓延。

不快からくる苛立ちを、ぎりぎりの飢えと疲れと、
絶え間ない怯えと恐怖の大きさを、
誰も想像することは出来ません。
それは体験したものだけが知ることでした。

目はうつろになり、動作はにぶる。
眠気をともなった周りへの無関心、無感動。

ただ座っているか、ふらふらと歩いているか。
<人間>ではない人びとの群れ。

死の壁ーーー約20000人を銃殺した。


10ブロック、窓の木の板ーーー死刑執行を見られないための処置

懲罰のための道具ーーー鞭打ち、杭に吊るす
(後ろ手に縛り、身体を吊す。)

他人の身代わりになって死んだポーランド人の
マクシミリアン・コルベ神父が入れられていた監房18号室。
一切の水・食料を与えないので餓死牢と呼ばれていた。

立ち牢ー90㎝×90㎝の窓のない真っ暗な部屋に4人入れられた。
発狂する人や窒息する人もいた。
死ななかった人は強制労働に駆り出された。


囚人が書き残した落書き
  
ガス室(アウシュビッツ)

新しい移住地、人々はそう言い含められて
ここへ来たのですが・・・(中略)
荷物を一か所にあずけると、囚人たちは一人一人、
SSの医者たちの前を歩かされました。
囚人たちの体力に決定を下すためです。
働く力が残っているか、そうでないか。
すぐ<消す>必要があるか?

病人、老人、弱っている者、
子どもたちは、ガス室への道を歩かされた。

人びとはシャワーで消毒するといわれて地下室へ。
気密のドアが閉まると
1、2缶のチクロンBが壁に造られた隙間から注ぎ込まれた。
毒ガスを発するチクロンBは
「ドイツ害虫駆除協会」の製品でした。

焼却炉(アウシュビッツ)ーーー1日350人の死体が焼かれていた。
1台の炉には同時に2、3人の死体が入れられた。

人々はヨーロッパ中から貨車で送られてきたー国籍は24ヵ国。
『選別』ー死か、労働の後の死か、その違いにしか過ぎなかった。

ビルケナウ収容所はユダヤ人を消す目的で作られた施設。
<絶滅収容所>と呼ばれた。

ガス室だけではなく、飢え、過労、伝染病、病気、虐待、
拷問、死の行進、銃殺、絞首刑、自殺、
人体実験などありとあらゆる方法で殺された。

アウシュビッツ・ビルケナウ収容所で
150万人の人々が殺されました。

ユダヤ人大量虐殺の全体の犠牲者は
600万人に上ると言われる。
(NHK NスペPlus『アウシュビッツ 死者たちの告白』より)

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絶望を目の前に、それでも人々は精いっぱいの
助けあう努力をしあいました。

スープを一さじづつ、みんなで出しあって
その日にいちばん必要としている人に、
飲ませることもありました。

親から離れてまぎれ込んだ子どもを
かくし通そうとした人々もいます。

また、救ってはもらえないと知りながら、
病院へと隣の人を運ぶ人もいました。
囚人の医者は夜も患者につきそいました。

助け合いは<抵抗の動き>を作り出しました。
それは、人びとが人間の尊さと誇りを失わない証でしたし、
人間を取りもどすことでもありました。

やがて、グループが生まれ、外のレジスタンス運動と連絡して、
秘密のうちに地下活動が生まれました。

抵抗運動の目的は、一番危機にさらされた人びとを助け、
囚人の間に連帯を作り出し・・・
生きる希望を目ざめさせること・・・。

もう一つは、収容所内で起こった犯罪の証拠を集めることでした。



アウシュビッツ①

2021-08-01 21:36:11 | 平和
1993年8月、私はアウシュビッツを訪れました。
「アンネ・フランクを訪ねる旅」でした。

「私たちは忘れない。もし、忘れさせようとする人々がいたら、
私たちはいっそう強く思い出すだろう。
忘れてしまったら、私たちに未来はないのだから・・・」
この言葉は博物館の碑に書かれているものです。

戦後76年たち、アウシュビッツについて
知っている人はどのくらいいるのでしょう?
「アウシュビッツ」「大量虐殺」『ホロコースト』
という言葉だけは知っているが、
内容を知らない人も多いのではないでしょうか?

元五輪開会式ディレクターの小林賢太郎氏が芸人時代に
「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」という言葉を使い、
ホロコーストを笑いのネタにしたことが問題になりました。

これは小林氏だけの問題ではなく、
日本の平和教育の問題でもあると思います。

戦争を体験した方は90歳を越える方が多くなって、
話を聞くことが難しくなっています。

家族や教師から戦争の話を聞く機会も
減っているのではないでしょうか?

テレビでもお笑いやバラエティばかりで
平和や戦争を扱った番組はほとんどないといっても
いいでしょう。

だからこそ、学校で史実に基づいて丁寧に次の世代の人たちに
教えなければならないのに、
教科書から戦争・原爆記述は減少しています。

さらに、日本の戦争を美化・正当化 するような
教科書も出てきています。


28年前の写真でセピア色になっている上、
硝子越しに写したものが多く、見にくいですが、
本などからではなく、
ここでは、あえて私の写した写真を
見ていただきたいと思います。
(少し明るさなど修正しています。)
書き添えた文章はほぼ当時のままです。

トップの写真はアウシュビッツの正門です。
「働けば自由になれる」と書かれています。

アウシュビッツ近くを走る鉄道

このように貨車で運ばれた。(模型)


収容所の有刺鉄線(高圧電流が通っていた。)
左側は収容所の台所

以下はアウシュビッツ内の展示品


チクロンB(毒ガス)


刈り取られた髪の毛と髪の毛で織った布
髪の毛はドイツの会社でマットレスと布地になった。


靴の山


ブラシの山


鞄の山


義手、義足の山


眼鏡の山


子どもたちの遺品


遺された日用品


収容された人々が写された三枚一組の写真


収容者が着せられた衣服