以前、書いたアウシュビッツ①の続きです。
写真は1993年8月「アンネ・フランクを訪ねる旅」に
参加した際、私が写したものです。
文は青色が当時の私のメモ、
黒色が「平和のアトリエ」発行の『アウシュビッツの手紙』と
「毎日新聞社」発行の『ホロコースト 絶滅収容所の記憶
パンと靴と未来』を参考に書いたものです。
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アウシュビッツ強制収容所が開かれたのは1940年6月。
初めはドイツ占領軍に反抗したり、レジスタンス運動に参加した
ポーランド人を入れるための強制収容所でした。
ヒットラーが政権を取ったころ、ドイツは混乱状態にありました。
町には、貧しい人や失業者があふれていました。
その不満をユダヤ人に向けて、反らそうとしたのです。
1942年1月ヨーロッパ中のユダヤ人を
根絶やしにすることを決めました。
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ビルケナウ収容所はアウシュビッツ収容所の
西方約3キロのところに建てられました。
アウシュビッツ第二収容所と呼ばれていました。
収容バラック250以上、面積1750平方キロメートル。
収容人員は一番多い時には14万人にもなったそうです。
建設にはアウシュビッツの囚人たちが使われました。
アウシュヴィッツ第三強制収容所モノヴィッツは
シレジア地方にあったドイツ軍需工場や鉱山・
製油所・実験農場などに囚人を送るための収容所で
40ヶ所に分散していました。
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収容者の1日の食事1300~1700kcal
朝ー500ccのコーヒーと呼ばれた液体。
昼ー1ℓの腐った野菜で作られた水のようなスープ。
夕ー300〜350gの黒パン、30gのマーガリンと薬草の飲み物。
<働く>といっても奴隷のように働かされたのです。
12時間労働で、食事以外に休みはありません。
その上、早く急いで作業するように
カポ(伍長・頭などと訳されている)たちが
こん棒とムチを振るうのでした。
時には、走りながら働かされました。
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収容所内トイレ(アウシュビッツ)
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ビルケナウ収容所のトイレ
1人10秒という規則があった。
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洗面所(アウシュビッツ)
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ベッド(アウシュビッツ)
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ビルケナウ収容所の内部
3段ベッドの一つの棚を男か女が8人で<眠る>ために使ったのでした。
3〜4人に一枚の毛布や藁ぶとん、洗うこともなかった衣服。
しらみやノミの攻撃、カポ(親分格の監視役)のどなり声、いざこざ。
暖房や防寒の措置のない中、歯の根の合わなかった夜、
蒸れと悪臭で眠れなかった夜・・・。
時にはチフスや赤痢、そして、皮膚病の蔓延。
不快からくる苛立ちを、ぎりぎりの飢えと疲れと、
絶え間ない怯えと恐怖の大きさを、
誰も想像することは出来ません。
それは体験したものだけが知ることでした。
目はうつろになり、動作はにぶる。
眠気をともなった周りへの無関心、無感動。
ただ座っているか、ふらふらと歩いているか。
<人間>ではない人びとの群れ。
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死の壁ーーー約20000人を銃殺した。
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10ブロック、窓の木の板ーーー死刑執行を見られないための処置
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懲罰のための道具ーーー鞭打ち、杭に吊るす
(後ろ手に縛り、身体を吊す。)
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他人の身代わりになって死んだポーランド人の
マクシミリアン・コルベ神父が入れられていた監房18号室。
一切の水・食料を与えないので餓死牢と呼ばれていた。
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立ち牢ー90㎝×90㎝の窓のない真っ暗な部屋に4人入れられた。
発狂する人や窒息する人もいた。
死ななかった人は強制労働に駆り出された。
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囚人が書き残した落書き
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ガス室(アウシュビッツ)
新しい移住地、人々はそう言い含められて
ここへ来たのですが・・・(中略)
荷物を一か所にあずけると、囚人たちは一人一人、
SSの医者たちの前を歩かされました。
囚人たちの体力に決定を下すためです。
働く力が残っているか、そうでないか。
すぐ<消す>必要があるか?
病人、老人、弱っている者、
子どもたちは、ガス室への道を歩かされた。
人びとはシャワーで消毒するといわれて地下室へ。
気密のドアが閉まると
1、2缶のチクロンBが壁に造られた隙間から注ぎ込まれた。
毒ガスを発するチクロンBは
「ドイツ害虫駆除協会」の製品でした。
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焼却炉(アウシュビッツ)ーーー1日350人の死体が焼かれていた。
1台の炉には同時に2、3人の死体が入れられた。
人々はヨーロッパ中から貨車で送られてきたー国籍は24ヵ国。
『選別』ー死か、労働の後の死か、その違いにしか過ぎなかった。
ビルケナウ収容所はユダヤ人を消す目的で作られた施設。
<絶滅収容所>と呼ばれた。
ガス室だけではなく、飢え、過労、伝染病、病気、虐待、
拷問、死の行進、銃殺、絞首刑、自殺、
人体実験などありとあらゆる方法で殺された。
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所で
150万人の人々が殺されました。
ユダヤ人大量虐殺の全体の犠牲者は
600万人に上ると言われる。
(NHK NスペPlus『アウシュビッツ 死者たちの告白』より)
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絶望を目の前に、それでも人々は精いっぱいの
助けあう努力をしあいました。
スープを一さじづつ、みんなで出しあって
その日にいちばん必要としている人に、
飲ませることもありました。
親から離れてまぎれ込んだ子どもを
かくし通そうとした人々もいます。
また、救ってはもらえないと知りながら、
病院へと隣の人を運ぶ人もいました。
囚人の医者は夜も患者につきそいました。
助け合いは<抵抗の動き>を作り出しました。
それは、人びとが人間の尊さと誇りを失わない証でしたし、
人間を取りもどすことでもありました。
やがて、グループが生まれ、外のレジスタンス運動と連絡して、
秘密のうちに地下活動が生まれました。
抵抗運動の目的は、一番危機にさらされた人びとを助け、
囚人の間に連帯を作り出し・・・
生きる希望を目ざめさせること・・・。
もう一つは、収容所内で起こった犯罪の証拠を集めることでした。