残月録

残月がやがて消えていく間にも、私の日常生活の中に何か一瞬の輝きを求めて写真を撮っています.

崇徳院の怨霊

2021-06-22 13:38:49 | 日記

    崇徳院の怨霊におののく民


    崇徳院の怨霊 


    崇徳院の怨霊


日本3大怨霊(菅原道真、平将門、崇徳天皇)の1つである、
崇徳院の怨霊について取り上げてみたいと思います。
歌人としての崇徳院は誰もが知るところですが
何故、崇徳院は不遇の最後を遂げ、怨霊や妖怪となったのか。

平安後期、鳥羽天皇と中宮・藤原璋子の第1子として生まれるのですが
祖父白河上皇の子ではないかと疑われました。そのため鳥羽天皇に疎まれ
この事が彼の一生につきまといます。
3歳で第75代天皇に即位するが、父が寵愛した美福院の子を
即位させるため崇徳天皇は上皇(24歳)になります。
しかし次の天皇、近衛天皇は17歳で崩御したため
鳥羽上皇と崇徳院の間に後継者争いが起きこれが
「保元の乱」です。保元の乱の最中に鳥羽上皇も崩御しますが、
「死に顔を崇徳院に見せるな」と遺言します。
親子でありながら、それほど朕が憎いのかと崇徳院は怒ります。
にもかかわらず、鳥羽上皇の圧倒的勢力に敗れた崇徳院は讃岐国に
配流され帝からの庇護もなく余生を送ります。
写経にいそしみ、写経文を京へ上納したところ、「呪詛が書かれている」と送り返され
激怒した崇徳院は舌をかみきり
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向す」と血で書きました。
その容貌は髪の毛、髭、爪は伸び放題、眼光鋭く恰も
生きた天狗のようだったと言われています。
崩御後は棺のふたを閉めても血が噴き出したそうです。
院の死後、白河院に近い人々が次から次へと亡くなり、
「強訴、大火、陰謀」が起こり、崇徳院の怨霊のなせる禍
と恐れられました。


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