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生きとし生けるものが幸せでありますように。

雨ニマケナカッタ

2019-01-30 16:53:45 | 日記

 そも、お釈迦様の教えとは、怒りを無くし、欲を無くし、無智を無くせば、真に幸せになれますよ。という教えだと私は理解しています。

 しかし、私のようにどこまでも愚かな人間は、好きなだけ怒り、際限なく欲張り、無智無明な亡者のまま、それでも何とかして幸せになりたい!! と、そう欲するものです。

 全くもって度し難し──とは言え、私個人としては、お釈迦様の教えを基に、なんとか少しだけでも自分の心を成長させたいという気概を(ほんのちょっぴりではありますが)確かに持っています。

 それを譬えるなら。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ


 そして今回は、初めて、そして少しだけ「雨ニマケナカッタ」というお話です。



 ──サウイフモノニ、私も、なりたいと常々思っていました。

 だがしかし、ああしかし、如何にサウイフモノニなりたくても、そう簡単になれる筈もなく(というかサウイフモノとは結局、阿羅漢のイメージに他なりませんが)。

 まあそれでも、私は私なりに瞑想(サティ)を意識した生活を日々を営んではいるのですが……これがまた、何の成果も無く、手応えすら獲られない毎日を粛々と過ごしておりました。



 そうしてつい先日の事なのですが、私よりも20歳前後年長である他人様から、憎悪と思い込みと屁理屈とで構成された「罵倒」を、およそ三分間に渡って拝聴するという機会を得ました。

 そしてその時、ついに、私自身初めてとなる、瞑想の成果を確認出来ました。



 それは──怒りと狂気で目を血走らせた薄汚い老人が、支離滅裂な感情論と暴言を大声でまくし立てていた時のことです。

 段々と大きくなる罵声を浴び続けていた、その時──私の心臓の少し上に、突如強い内圧が発生し、瞬間的にブワッと大きく膨らんだような感覚を得て。


「(あ  ) (これは私の) (怒りだ)」


 というサティを得ました。

 その次の瞬間、瞬く間に私の心を汚染しようとしていた、怒りの圧力が「スッ」と抜けてしまいました。

 この心の流れは、時間にすると一秒以内の出来事でした。

 私にとっては決定的に価値のあった一秒でしたけれど、私の目の前にいる老人には何ら関係のないことです。

 なのでご自分の命を縮めるような勢いで、大変元気よく、根も葉もない罵詈雑言を大声で喚いていました。

 そしてこの時にもまた、もう一つ、いつの間にか自分の心に起きていた、大変大きな変化に気がつきました。


 全く腹がたたないのです。


 その老人は自身が持てる全身全霊を傾けて、ただ私を貶める為だけに、まるで見当外れな妄想ストーリーを必死にがなりたてていました。

 それでも、何を言われても、私は私自身が本気でビックリするほどに、全く腹がたたないのです。

 依然、老人の妄言は止まりません。

 その止まらない妄言の一字一句をしっかりと聞いてはいたのですが、最後にはその発想のあまりの陳腐さと、幼稚さ加減に、思わず「フフッ」と笑みがこぼれてしまいました。

 そんなこんなで「ザ・老人! 怒りの妄言劇場」は、およそ三分ほどの上演時間を経てつつがなく無事に閉幕しました。

 まあ風説では、人間が全力を奮える時間とは(個人的な肉体的能力差に関係なく)、だいたい三分間が限界である。というその辺りの事情が、無事閉幕に至れた主な理由なのでしょうね。

 それはともかく、この老人の事は別にいいのです。それよりもこの時に、私は。

 
 生まれて初めて感じる、自由(幸せ)を確認していました。


 それを何かに喩えるならそれは、小鳥が自らの意志で、自らの翼を用いて、大空に羽ばたいて行くような──と、同時に高い木の梢に留まり安らぐかのような、そんな動的でもあり、静的でもある、何ものにも縛られない、そんな感覚でした。


 そして今現在ですが、この素晴らしかった感覚は既に失われています。

 これは恐らくですが、私の心に生じた怒りの大きさに比例して、怒りが滅した際のノックバックもまた大きく、それ故にヴィパッサナー瞑想の成果がとても分かり易かったのではないかと推察しています。

 しかしあれ以来、今でも私の心には、相変わらず小さな怒りや欲がしょっちゅう湧いています。

 その度にサティを入れてはいるのですが、やはり小さな怒りだと、そのノックバックもまた非常に小さくあるため、私の未熟な集中力では拾えきれていなかっただけなのではないかと推察を重ねています。

 でもこの推察もまた、多分どこかで微妙に間違っているでしょうけど、ね。

 ともあれ、それでもやる気が出てきました。

 今回はヴィパッサナー瞑想の効果、その片鱗をちょっとだけ垣間見た程度のお話ですが、もし、怒りと欲と無智を完全に滅し、お釈迦様が諭すところに至れるのなら、私はそこを目指すのみです。


 生きとし生けるものが幸せでありますように。

 230 拝