

この地球上では自分が思ったこと、したことが、そのまま自分に返ってきます。

これも一種の作用反作用の法則と言えば分かりやすいかな。

強くぶつかれば強く跳ね返ってくる。弱く当たれば弱く跳ね返ってくる。そんな当たり前の話です。

だけどその当たり前なことに対する理解が浅ければ浅いほど、その代償は理不尽な苦しみとなって、とても高くつくものになります。

良いことをすれば良いことが返ってくる。
悪いことをすれば悪いことが返ってくる。

ただそれだけの筈なのに、この世の中では誰もが、良かれと思ってしたことが何故かことごとく裏目に出て返ってきます。
そんな話が実に多く、巷にはありふれています。

誰もが良かれと思って行動し、遅かれ早かれ誰しもが、その結果に失望し後悔し憎悪する。

一見すると不思議な話にも思えます。

でも、そんな疑問に関する答えは簡単なものでした。

私たちの「良かれ」と思っていたことが、実は「悪い」ことに他ならなかったからです。

その良かれという思いの正体が、実は、欲だったり、怒りだったり、無智だったからです。

(良かれと思って)欲をぶつけたら、更なる欲が返ってきた。
(良かれと思って)怒りをぶつけたら、更なる怒りが返ってきた。
(良かれと思って)無智をぶつけたら、更にとんでもない無智が返ってきただけだったという、たったそれだけのことなんです。

だったらどうすれば良かったのでしょうか。

根本的には欲を捨てればいい。怒りを捨てればいい。無智をなくせばいいという、ただそれだけの話なんですけれど、それは、言うは易く行うは難し。
いきなりは難しい話です。

大前提として、私たちは作用反作用の法則からは逃れられません。

だから自分という原因が悪いことを作用させておいて、反作用という結果に対して良いことだけを望むのは、それこそ無智無明の為せる狂気の技です。

だったら。
悪いことはやめよう。
良いことをしよう。

と、普通に考えればそうなります。
と、そうはなるのですが、良いことに慣れていない、言わば良いことの素人である私たちが、無理に良いことをしようとする必要はないみたいです。
私たちが半端なうちはどうせまた、良かれと思って間違えますからね。
だから、せめて。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
という慈悲の意識を、意志を、自分の心の内に育てることこそが、幸せへの第一歩だと、正解だと、ブッダの教えに基づいて考えた結果、私はそんな風に結論しています。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
230 拝
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