80ばあちゃんの戯言(2)

聞いてほしくて(つづき)

私の人生(4)

2016-08-23 18:47:52 | 日記
話しついでといいますか、祖父のその後について

もう少し触れておきたいと思います。

祖父の成功を聞いて、石川県の兄達が息子の世話を

横浜の弟に、次々頼んできました。

祖母は彼らの世話が大変だったようです。

当時絵描きを目指していた甥は特に我儘で、絵を描

いている時には、夢中ですから、”ご飯ですよ”

といっても、”はい、はい。”と生返事で中々食卓

に着かない。祖父はグルメですから温かいものは

温かいうちに食べたい。祖母は困って其の甥を女中

さん達といっしょに食事させることにしたのですが、

それを影で文句たらたら、女中と一緒にしたと。



祖父は甥が可愛くて、絵描きだけでは何時までたっても

中々生活していかれないと、心配し、ボーイさんの仕事

を探してきてやったのですが、是にも影で文句。

叔父は自分の絵を認めてくれないが、他人様の方が

自分の描いた絵をうまい、うまいといってくれると

いう始末。他人様は無責任ですからね。ただ褒めてさえ

あげれば、喜んでもらえるのなら、褒めるくらい誰でも

できますよ。でも、他人様は生活までみてはくれません。

世間知らずというものはしょうがないもので、祖父が

関西の仕事で出かけていました。その時、加賀のお殿様

がな亡くなったのに、叔父は帰ってこない。ご家老様は

直ぐお見えになったのにと、これを知って私はあきれま

した。祖父だって急いで帰って礼服に着替え御焼香に伺

ていました。

絵描きというのは常識がないのです。いまから100年

以上も前のことです。大阪から帰るのに、何時間掛かると

思っていたのでしょうか? 私が小学校6年生の時の

4月19日、父の転勤で横浜から大阪へ行くのに、急行で

9時間、普通で13時間掛かったものでした。多分それ

よりも40年以上も前のことですよね。兄達の息子達まで

大勢の家族を抱えて仕事を励まなければならない祖父の

事を何も解っていないのです。

祖父母は娘が三人で、跡取りが居ませんでしたので、養子

を迎えましたが病気ばかりをするので、帰されたそうです。

それでも、りくちゃんと呼ばれていた其のおじさんは、

その節は大変お世話になったと何時も何時も何かあると

直ぐ飛んできてくれ、母達は感激していました。


祖父母は三人の娘たちをフェリスに行かせました。当時の

フェリスでは国語、お作法、お裁縫以外は全部英語で授業

していたそうです。

母の話ではあるとき体育の先生が手桶を持ってきて、

 ”これは、日本語で何といいますか?”と、聞かれたとか。

一列に並んでいた生徒たちの大きい方半分くらいの人たちが

 ”バケツ!”小さい方の生徒達が”手桶(テオケ)!”と

 叫んだら、先生が、

 ”おや、オケツ ですか?”と、言われたので、皆で

  大笑いになったそうです。



その後、大正12年の関東大震災で、祖父は仕事場も家も

すべてを失いました。

(続く)