NHKテレビ輝かしい女性達の最後に登場されるのは、99歳の精神科のお医者さん
高橋幸枝さんで、神奈川県秦野市にある151床のベッド数の病院を、およそ50年前
に建てられました。
当時はまだ数少なかった精神科のある病院でした。
今も現役で毎週一回は患者さんを診察されています。
・ ・・・仕事のことを考えると、夜眠れなくなっちゃうんで・・・・。
高橋先生
“私も夜眠れない時よくあるけど、眠ろう、眠ろうとすると、よく眠れないのよね。
まァ、どうでもいいと開き直るくらいだと、知らないうちに眠っちゃったりしてるからね。”
99歳と言う年齢にして、医師として、経営者として多忙な日々を送っておられます。
高橋先生
“私はね。死と手を繋いでいるのよ。あまり仲良くはないけどね。だから、何時どうなるか
分からないけど、まあね.そろそろ辞めたいと思っているんだけど。やっぱり100に
なっちゃう、一世紀だものね。”
午前中の診察を終えると高橋さんは病院の駐車場の向かいにあるご自宅に帰ります。
高橋さんのお住まいはご自分の経営する高齢者用のグループホームの三階です。
建物の端についている階段、これが自宅への唯一のルートです。エレベーターはありません。
30年以上高橋さんはこの51段の階段を使って病院への行き来をしています。
年寄りだからと甘えることなく、お料理や自分で出来ることは自分でやる。其れが高橋さんの
モットーです。
大正5年新潟県に生まれた高橋さんは、約80年前女学校を卒業する頃には、同級生と全く
違う価値観を持っていました。
当時の女学生は花嫁修行のためお茶や、お花を習っていました。
当時の高橋さんは、そんなものはばかばかしいと思っていました。
高橋さんは17才で上京、当時はまだ珍しかったタイピストとして自立する道を選びました。
其れ氏、22歳の時に、単身海を渡ります。
当時、中国青島の海軍省でタイピストとして、
勤務することになったのです。
高橋さんはそこで、運命を変える一人の牧師さんに出会ったのです。清水安三です。
そこで、中国の貧しい人々に教育や医療を施す慈善事業を行っていました。清水さんが
貧民街に建てた救護院、そこには病気に苦しむたくさんの人々が居ました。しかしお金が
ないため、十分な治療が出来ませんでした。
清水さんの活動を手伝っていた高橋さんに、清水さんから
“あんた、お医者さんになればいいじゃないか”と声を掛けられたのです。
そんなことを考えても見なかった高橋さんは、
よく考えて“先生、私は医師になろうかと思います”と言って、昭和18年、27歳で
医師になるため、太平洋戦争中のさなか日本に帰ってきました。其の頃、戦時中の医
師不足から女子の医師専門学校が次々に建ちあげられました。
猛勉強の末、福島県立女子医専に、合格。其の翌年戦争は終わりました。昭和25年
33歳で見事に医師になり、38歳の時、昭和30年、神奈川大和市に内科と小児科の
個人病院を開業、
昭和30年代の後半、日本の高度経済成長期を迎えました。高橋さんは新たな道を模索し
始めます。高橋さんは精神科の医師を志しました。
高橋さん
“そろそろ神経症のような、落ち込みとか、うつ病とかぼちぼち出てきたんでしょうね。
心の病気はあらゆる病気と関連がると思い、49歳の時に現在の精神科のある病院を建ち
上げました。当時は精神病に対する偏見が根強く、有効な治療法も確立されていません
でした。あの当時は精神科と言うと″終(つい)の住みか”みたいになったわけでしょ。
今はほら、短期退院、一ヶ月かそこらで退院しますけれど、当時一回入ると、もう出れ
ないで、家族もお願いしますって、こうなっちゃう。精神科は大きければ大きいほど儲
かると言われ、400床、500床だと、大きめになさったけど、私は自分の目の届く
68床でスタート。
患者一人一人と丁寧に向き合い、あくまで患者の社会復帰を支援したいという思いが
あったんです。しかし、其の理想はたやすく実現できるものではありませんでした。
翌日退院することになっていた患者さんが、買い物にいきたいといって出かけていったが、
其の晩買ってきたベルトで首を絞めて自殺、
あれはショックでした。私は家に帰るんだから嬉しいと思っていましたが、もう少し、
私がしっかり考えていたら,日穏当のことは家へ帰るのがいや出、もう少しここにいた
かったかなあといろいろ考えましたけどね。高橋さんはより患者の心に分け入る度に、
時には1時間、2時間と患者と対話を続けるようになったといいます。患者さんに教えられる
ことによって、また、患者さんの話を聞くことによって、そんな風に考えるのかという
そんな日々の繰り返しでした。
高橋さんは80歳になった頃、結婚もせず、仕事一筋だった人生をじっくりと振り返り、
何か趣味を始めようと思いました。そして始めたのが水彩画でした。観察した上で
花の色や形を細かく描くのが好きだといいます。自分ではぜんぜん描いたことがなかった
わけで、じゃあ、一番苦手な絵に挑戦しようかと、こっそり通信教育に手紙を出した。
・ ・・・こっそりですか?
高橋さん
“だってみっともないでしょ。60の手習いというけど、80の手習いではみっとも
ないではないですか。”
高橋さんは92歳の時に転んで大怪我をしました。網戸につかまっていて、網戸が
動いたからです。大腿骨折して、大腿骨を金属で固定する手術をしました。年齢を
考えると、そのまま寝たきりになる心配もあったのです。高橋さんは一生懸命に
リハビリに励み、1ヵ月後に退院、自宅に戻る日がやってきました。しかし、階段を
一歩上がるのが、とても大変でした。
高橋さん
“もう、うんと考えて、勇気を奮って、やっと上がって、
(ァ、上がれた)と、思ったら、次から嘘のように簡単に階段を上がることができました。
今日も8時45分、高橋さんの新しい一歩が始まりました。
高橋さん
“第一歩が怖いんですよ。やってみて、やれば出来る。もし出来なければ、また、どういう
風にしたら出来るかと考えればいい。”
風吹ジュンさん
“やあ、すばらしい。!!!”
木野花さん
“感動しちゃいました。”
国井さん
“あの一歩がすごいキーワード”
木野花さん
“そう思います。私なんか、もし同じ立場で医者になれと言われても全然触れるものが
ないから、多分スルーしちゃいます。”
長田先生
“そうですよ。潜在的に自分が何か持っていて
そこにひっかかればいいんですよ。“
風吹さん
“自分にどういう先があるか自分で決めていく・・・。”
長田先生
“生涯発達って言いましてね。成人になったら後は老化して老いていくだけかと思ったら、
うじゃなくて心の面と精神面まで含めて生涯なんらかの成長を続けていく。”
(完)
高橋幸枝さんで、神奈川県秦野市にある151床のベッド数の病院を、およそ50年前
に建てられました。
当時はまだ数少なかった精神科のある病院でした。
今も現役で毎週一回は患者さんを診察されています。
・ ・・・仕事のことを考えると、夜眠れなくなっちゃうんで・・・・。
高橋先生
“私も夜眠れない時よくあるけど、眠ろう、眠ろうとすると、よく眠れないのよね。
まァ、どうでもいいと開き直るくらいだと、知らないうちに眠っちゃったりしてるからね。”
99歳と言う年齢にして、医師として、経営者として多忙な日々を送っておられます。
高橋先生
“私はね。死と手を繋いでいるのよ。あまり仲良くはないけどね。だから、何時どうなるか
分からないけど、まあね.そろそろ辞めたいと思っているんだけど。やっぱり100に
なっちゃう、一世紀だものね。”
午前中の診察を終えると高橋さんは病院の駐車場の向かいにあるご自宅に帰ります。
高橋さんのお住まいはご自分の経営する高齢者用のグループホームの三階です。
建物の端についている階段、これが自宅への唯一のルートです。エレベーターはありません。
30年以上高橋さんはこの51段の階段を使って病院への行き来をしています。
年寄りだからと甘えることなく、お料理や自分で出来ることは自分でやる。其れが高橋さんの
モットーです。
大正5年新潟県に生まれた高橋さんは、約80年前女学校を卒業する頃には、同級生と全く
違う価値観を持っていました。
当時の女学生は花嫁修行のためお茶や、お花を習っていました。
当時の高橋さんは、そんなものはばかばかしいと思っていました。
高橋さんは17才で上京、当時はまだ珍しかったタイピストとして自立する道を選びました。
其れ氏、22歳の時に、単身海を渡ります。
当時、中国青島の海軍省でタイピストとして、
勤務することになったのです。
高橋さんはそこで、運命を変える一人の牧師さんに出会ったのです。清水安三です。
そこで、中国の貧しい人々に教育や医療を施す慈善事業を行っていました。清水さんが
貧民街に建てた救護院、そこには病気に苦しむたくさんの人々が居ました。しかしお金が
ないため、十分な治療が出来ませんでした。
清水さんの活動を手伝っていた高橋さんに、清水さんから
“あんた、お医者さんになればいいじゃないか”と声を掛けられたのです。
そんなことを考えても見なかった高橋さんは、
よく考えて“先生、私は医師になろうかと思います”と言って、昭和18年、27歳で
医師になるため、太平洋戦争中のさなか日本に帰ってきました。其の頃、戦時中の医
師不足から女子の医師専門学校が次々に建ちあげられました。
猛勉強の末、福島県立女子医専に、合格。其の翌年戦争は終わりました。昭和25年
33歳で見事に医師になり、38歳の時、昭和30年、神奈川大和市に内科と小児科の
個人病院を開業、
昭和30年代の後半、日本の高度経済成長期を迎えました。高橋さんは新たな道を模索し
始めます。高橋さんは精神科の医師を志しました。
高橋さん
“そろそろ神経症のような、落ち込みとか、うつ病とかぼちぼち出てきたんでしょうね。
心の病気はあらゆる病気と関連がると思い、49歳の時に現在の精神科のある病院を建ち
上げました。当時は精神病に対する偏見が根強く、有効な治療法も確立されていません
でした。あの当時は精神科と言うと″終(つい)の住みか”みたいになったわけでしょ。
今はほら、短期退院、一ヶ月かそこらで退院しますけれど、当時一回入ると、もう出れ
ないで、家族もお願いしますって、こうなっちゃう。精神科は大きければ大きいほど儲
かると言われ、400床、500床だと、大きめになさったけど、私は自分の目の届く
68床でスタート。
患者一人一人と丁寧に向き合い、あくまで患者の社会復帰を支援したいという思いが
あったんです。しかし、其の理想はたやすく実現できるものではありませんでした。
翌日退院することになっていた患者さんが、買い物にいきたいといって出かけていったが、
其の晩買ってきたベルトで首を絞めて自殺、
あれはショックでした。私は家に帰るんだから嬉しいと思っていましたが、もう少し、
私がしっかり考えていたら,日穏当のことは家へ帰るのがいや出、もう少しここにいた
かったかなあといろいろ考えましたけどね。高橋さんはより患者の心に分け入る度に、
時には1時間、2時間と患者と対話を続けるようになったといいます。患者さんに教えられる
ことによって、また、患者さんの話を聞くことによって、そんな風に考えるのかという
そんな日々の繰り返しでした。
高橋さんは80歳になった頃、結婚もせず、仕事一筋だった人生をじっくりと振り返り、
何か趣味を始めようと思いました。そして始めたのが水彩画でした。観察した上で
花の色や形を細かく描くのが好きだといいます。自分ではぜんぜん描いたことがなかった
わけで、じゃあ、一番苦手な絵に挑戦しようかと、こっそり通信教育に手紙を出した。
・ ・・・こっそりですか?
高橋さん
“だってみっともないでしょ。60の手習いというけど、80の手習いではみっとも
ないではないですか。”
高橋さんは92歳の時に転んで大怪我をしました。網戸につかまっていて、網戸が
動いたからです。大腿骨折して、大腿骨を金属で固定する手術をしました。年齢を
考えると、そのまま寝たきりになる心配もあったのです。高橋さんは一生懸命に
リハビリに励み、1ヵ月後に退院、自宅に戻る日がやってきました。しかし、階段を
一歩上がるのが、とても大変でした。
高橋さん
“もう、うんと考えて、勇気を奮って、やっと上がって、
(ァ、上がれた)と、思ったら、次から嘘のように簡単に階段を上がることができました。
今日も8時45分、高橋さんの新しい一歩が始まりました。
高橋さん
“第一歩が怖いんですよ。やってみて、やれば出来る。もし出来なければ、また、どういう
風にしたら出来るかと考えればいい。”
風吹ジュンさん
“やあ、すばらしい。!!!”
木野花さん
“感動しちゃいました。”
国井さん
“あの一歩がすごいキーワード”
木野花さん
“そう思います。私なんか、もし同じ立場で医者になれと言われても全然触れるものが
ないから、多分スルーしちゃいます。”
長田先生
“そうですよ。潜在的に自分が何か持っていて
そこにひっかかればいいんですよ。“
風吹さん
“自分にどういう先があるか自分で決めていく・・・。”
長田先生
“生涯発達って言いましてね。成人になったら後は老化して老いていくだけかと思ったら、
うじゃなくて心の面と精神面まで含めて生涯なんらかの成長を続けていく。”
(完)