80ばあちゃんの戯言(2)

聞いてほしくて(つづき)

輝かしい女性達(4)

2015-11-23 15:12:01 | 最近の出来事
NHKテレビ輝かしい女性達の最後に登場されるのは、99歳の精神科のお医者さん

高橋幸枝さんで、神奈川県秦野市にある151床のベッド数の病院を、およそ50年前

に建てられました。

当時はまだ数少なかった精神科のある病院でした。

今も現役で毎週一回は患者さんを診察されています。

・ ・・・仕事のことを考えると、夜眠れなくなっちゃうんで・・・・。

高橋先生

“私も夜眠れない時よくあるけど、眠ろう、眠ろうとすると、よく眠れないのよね。

 まァ、どうでもいいと開き直るくらいだと、知らないうちに眠っちゃったりしてるからね。”

 99歳と言う年齢にして、医師として、経営者として多忙な日々を送っておられます。

高橋先生

“私はね。死と手を繋いでいるのよ。あまり仲良くはないけどね。だから、何時どうなるか

分からないけど、まあね.そろそろ辞めたいと思っているんだけど。やっぱり100に

なっちゃう、一世紀だものね。”

午前中の診察を終えると高橋さんは病院の駐車場の向かいにあるご自宅に帰ります。

高橋さんのお住まいはご自分の経営する高齢者用のグループホームの三階です。

建物の端についている階段、これが自宅への唯一のルートです。エレベーターはありません。

30年以上高橋さんはこの51段の階段を使って病院への行き来をしています。

年寄りだからと甘えることなく、お料理や自分で出来ることは自分でやる。其れが高橋さんの

モットーです。

大正5年新潟県に生まれた高橋さんは、約80年前女学校を卒業する頃には、同級生と全く

違う価値観を持っていました。

当時の女学生は花嫁修行のためお茶や、お花を習っていました。

当時の高橋さんは、そんなものはばかばかしいと思っていました。


高橋さんは17才で上京、当時はまだ珍しかったタイピストとして自立する道を選びました。

其れ氏、22歳の時に、単身海を渡ります。

当時、中国青島の海軍省でタイピストとして、

勤務することになったのです。

高橋さんはそこで、運命を変える一人の牧師さんに出会ったのです。清水安三です。

そこで、中国の貧しい人々に教育や医療を施す慈善事業を行っていました。清水さんが

貧民街に建てた救護院、そこには病気に苦しむたくさんの人々が居ました。しかしお金が

ないため、十分な治療が出来ませんでした。

清水さんの活動を手伝っていた高橋さんに、清水さんから

“あんた、お医者さんになればいいじゃないか”と声を掛けられたのです。

そんなことを考えても見なかった高橋さんは、

よく考えて“先生、私は医師になろうかと思います”と言って、昭和18年、27歳で

医師になるため、太平洋戦争中のさなか日本に帰ってきました。其の頃、戦時中の医

師不足から女子の医師専門学校が次々に建ちあげられました。

猛勉強の末、福島県立女子医専に、合格。其の翌年戦争は終わりました。昭和25年

33歳で見事に医師になり、38歳の時、昭和30年、神奈川大和市に内科と小児科の

個人病院を開業、


昭和30年代の後半、日本の高度経済成長期を迎えました。高橋さんは新たな道を模索し

始めます。高橋さんは精神科の医師を志しました。

高橋さん

“そろそろ神経症のような、落ち込みとか、うつ病とかぼちぼち出てきたんでしょうね。

心の病気はあらゆる病気と関連がると思い、49歳の時に現在の精神科のある病院を建ち

上げました。当時は精神病に対する偏見が根強く、有効な治療法も確立されていません

でした。あの当時は精神科と言うと″終(つい)の住みか”みたいになったわけでしょ。

今はほら、短期退院、一ヶ月かそこらで退院しますけれど、当時一回入ると、もう出れ

ないで、家族もお願いしますって、こうなっちゃう。精神科は大きければ大きいほど儲

かると言われ、400床、500床だと、大きめになさったけど、私は自分の目の届く

68床でスタート。

患者一人一人と丁寧に向き合い、あくまで患者の社会復帰を支援したいという思いが

あったんです。しかし、其の理想はたやすく実現できるものではありませんでした。

翌日退院することになっていた患者さんが、買い物にいきたいといって出かけていったが、

其の晩買ってきたベルトで首を絞めて自殺、

あれはショックでした。私は家に帰るんだから嬉しいと思っていましたが、もう少し、

私がしっかり考えていたら,日穏当のことは家へ帰るのがいや出、もう少しここにいた

かったかなあといろいろ考えましたけどね。高橋さんはより患者の心に分け入る度に、

時には1時間、2時間と患者と対話を続けるようになったといいます。患者さんに教えられる

ことによって、また、患者さんの話を聞くことによって、そんな風に考えるのかという

そんな日々の繰り返しでした。

高橋さんは80歳になった頃、結婚もせず、仕事一筋だった人生をじっくりと振り返り、

何か趣味を始めようと思いました。そして始めたのが水彩画でした。観察した上で

花の色や形を細かく描くのが好きだといいます。自分ではぜんぜん描いたことがなかった

わけで、じゃあ、一番苦手な絵に挑戦しようかと、こっそり通信教育に手紙を出した。

・ ・・・こっそりですか?

高橋さん

“だってみっともないでしょ。60の手習いというけど、80の手習いではみっとも

ないではないですか。”

高橋さんは92歳の時に転んで大怪我をしました。網戸につかまっていて、網戸が

動いたからです。大腿骨折して、大腿骨を金属で固定する手術をしました。年齢を

考えると、そのまま寝たきりになる心配もあったのです。高橋さんは一生懸命に

リハビリに励み、1ヵ月後に退院、自宅に戻る日がやってきました。しかし、階段を

一歩上がるのが、とても大変でした。

高橋さん

“もう、うんと考えて、勇気を奮って、やっと上がって、

 (ァ、上がれた)と、思ったら、次から嘘のように簡単に階段を上がることができました。

今日も8時45分、高橋さんの新しい一歩が始まりました。

高橋さん

“第一歩が怖いんですよ。やってみて、やれば出来る。もし出来なければ、また、どういう

風にしたら出来るかと考えればいい。”

風吹ジュンさん

“やあ、すばらしい。!!!”

木野花さん

“感動しちゃいました。”

国井さん

“あの一歩がすごいキーワード”

木野花さん

“そう思います。私なんか、もし同じ立場で医者になれと言われても全然触れるものが

ないから、多分スルーしちゃいます。”

長田先生

“そうですよ。潜在的に自分が何か持っていて

 そこにひっかかればいいんですよ。“

風吹さん

“自分にどういう先があるか自分で決めていく・・・。”

長田先生

“生涯発達って言いましてね。成人になったら後は老化して老いていくだけかと思ったら、

 うじゃなくて心の面と精神面まで含めて生涯なんらかの成長を続けていく。”

(完)


輝かしい女性達(3)

2015-11-21 18:38:23 | 最近の出来事
今日は、先日NHKテレビで団塊スタイル自分再発見で放映された輝かしい女性達のお話のつづきです。

年齢を重ねても美しさを保ち続ける方をご紹介します。

秀香さん 66歳。60歳を超えて現役で活躍するスーパーモデルです。秀香さんがファッシヨンの

世界で有名になったのは、30歳を過ぎてから、結婚して一児の母親でありながら、パリコレクション

で活躍、しかし、家庭の事情で42歳で引退。

ところが、59歳で歌手としてデビュー、60歳でNHK歌謡コンサートにも出演しました。

 60歳でファッシヨンモデルにもカムバック。この日はファッシヨンデザイナーの鳥居ユキさんの

アトリエを訪れました。

身長177cm昭和24年生まれとは思えないタイルの良さと、若いモデルさんにはない表現力を

鳥居ユキさんは評価しています。

鳥居ユキさん

“秀香はファッシヨンそのものですから、もう何を着ても、スポーテイでも、エレガントでも、

すごくドレッシーなドレスでも、そう言うパリのエスプリを持っていらっしゃるから、楽しいですよね。”


東京浅草生まれの秀香さん、小学校6年生の時には、もう身長170センチはありました。


秀香さん

“すごいコンプレックスでした。東京タワーと言うのがあだ名でした。秀香ちゃんはお嫁にもいけないん

じゃないのかと言われました。

しかし、抜群のスタイルの 良さを買われて、19歳の時モデルとしてスカウトされました。

ところが、当時、モデルの世界でも177cmは高すぎました。スポットライトが当たらぬまま23歳で

モデルをやめ結婚し家庭に入りました。

秀香さん

“専業主婦の時には、やってて褒められるわけではない。毎日同じことをずっと続けることのストレス解消の

一番手っ取り早いのは食べることでした。”

26歳の時娘を出産したときには体重78kg。昔モデルをやって居た時より20kg以上も増えてしまい、

昔モデルさんだったらしいと陰口を叩かれ、其の悔しさから、モデル復帰デビューしようと言う笑われそうな

目標を掲げ、ダイエットを始めました。一つ一つの食べ物を記録することで、秀香さんはどれだけ不必要は

高カロリーをとっていたのか、いやがおうにも、自覚させられました。

其のことがダイエットの効果にも現われ、10ヶ月で23kgの減量に成功。30歳の時にはモデルに復帰。

そして、翌年、なんとパリに渡り、パリコレのオーディシヨンに挑戦。思っても見ないスポットライトを

浴びることになります。

秀香さん

“大きい舞台でたくさんのモデルを使ってやるようなショーが主流になった。そうすると背の高いことはとても

いいことで時代が私に寄ってきた感じで、子供といる時間も削らずに家事をしながらやろうと思っていた仕事が

突然本格的にどんとはいるようになっちゃって・・・・。”


仕事が多忙を極める一方で家事を手抜くことも出来ませんでした。其のことが次第に大きな負担となっていきました。

そして41歳の時、秀香さんを何かと支えてくれていた母親が脳梗塞で倒れ、介護をはじめ、翌年42歳でモデルを

引退。

秀香さん“ストレスがずっと溜まったんですよ。 母の介護をしていた時、このままだとまずいなあと思った時、歌を歌うと

気持ちがよくなるので、カラオケを買ってうちでちょっと歌ってみようかと大きな声で歌ったら、スーッと錘みたいなものが

溶けていく。これは私ががんになりそうだと思ったのがならないですむかと思ったのが、歌手になろうとした最大の事。

51歳の時秀香さんは、離婚。

シャンソン歌手を目指します。1から歌のレッスンに通い、小さなライブハウスのオーディシヨンを受けてステージに

上がりました。そんな地道な活動を10年近くも続け59歳の時漸くCDデビューを果たしました。

歌手デビューを果たしたことをきっかけに、還暦で、モデルに復帰しました。再び体型の維持が厳しく求められる秀香さん、

ダイエットの心配はないのでしょうか、5年前に母をなくした秀香さんの夕食を拝見しました。

なんと200gの分厚いステーキ。


秀香さん

“そうじゃない時はもう好きなものを好きなだけ食べるそんな秀香さんの秘密兵器は体重ノートです。毎日食べるものを

記録することで、理想の体重と、どれだけ差があるか把握するのです。

秀香さん

“前より体重が10キロ増えてしまったんですと言う方は体重計に乗っていないんですね。其れが私もあったんですね。”

10月の上旬、秀香さんが都内の音楽スタジオにやってきました。月末にちょっとしたディナーショーが開かれるのです。

一緒に出るピアニストの中尾博行さんと練習です。秀香さんの歌手としての夢は自分の作詞した歌を歌うことです。

秀香さん

“したいことが今は出来るので、今が一番いいかと・・・。40代は一番老けていました。老いても居ました。

本当に疲れていましたし、ちょっと一人がいいのかと・・・。(大笑い)”


司会の風吹ジュンさん
 
“40代は女性の危機といわれています・・。”

木野花さん

“共感。共感。また共感ですね。”

国井雅比古さん

“40代はある面で一番老けていたっておっしゃっていましたね。”

風吹ジュンさん

“私もすごくよく分かるんです。女性は皆おそらく50と言う年齢を考えた時、もしかしたら、これで終わると

 思う年代です。”

木野花さん


“私40代の終わりの頃、夜半にぱっと起きて、あたしもう終わりだなと思った時があるんですよ。まず、女として

 終わったんだと思うんですよ。多分其れと一緒にいろんなことが途が閉ざされていくような行くような何かぞっとして、

 起きたことがあるんですよ。“


国井さん

“女性にとって40代というのは何かここで花咲かせなければまずいと言うプレッシャーがあるんですね。”

風吹ジュンさん

“秀香さんはノートに体重か何かを記録しておられましたね?”

桜美林大学大学院教授長田久雄さん

“セルフモニターと言うんですが、自分のやったことや行為の状況を自分で観察して記憶すると毎日違いが

少しづつ分かってくる。其の違いを修正する気持ちになっていくということで、自分の行動の制御調整に

つながっていくと言う非常に適切なり方をされていると私は思いました。“

国井さん

“歌手としてデビューされたのが59歳でしょ?”


木野花さん

“ちょっと私も習いたい。”

風吹さん

“国井さんがいいお手本です。”

木野花さん

“どの分野?”

国井さん

“シャンソンです。”

風吹さん

“歌った後非常に気持ちいいでしょ?”

国井さん

“ええ、でも聞いている人はどうか分かりません。”

風吹さん

“長田さんは何かやっていらっしゃるんですか?”

長田さん

“うーん。昨年からバレーをね。でも、体が硬いので、バレ-にならないので迷惑をかけないように、

個人レッスンでストレッチをやりましてね・・・。”

国井さん

“其のストレッチをやってやがては?”

長田さん

“いえ。いえ。(笑い)”

(つづく)

輝かしい女性達(2)

2015-11-17 16:04:59 | 最近の出来事
今日は、先日NHKテレビで団塊スタイル自分再発見で放映された輝かしい女性達

のお話のつづきです。


では最初は92歳の世界最強アスリートの女性から。お名前は守田満さん。今も

現役の陸上選手。ご自宅の棚には、数々のトロフィーやメダルが飾られています。

マスターズ陸上大会で獲得しました。守田さんの出場しているマスターズ陸上大会は

35歳以上が参加し、5歳ごとに分けられたクラスで、タイムや順位を競い合います。


守田さんは

 80歳から84歳  200m

 85歳から89歳  100m、200m

 90歳から94歳  100m、200m

 など短距離走で世界の記録を5回塗り変えてき     

 たすごいアスリートです。


 実は守田さんは、女学校時代には、卓球の選手で、陸上競技とは全く無縁でした。

 結婚後は夫が作った冠婚葬祭の会社を40年も支えてきました、67歳で、仕事を

 やめて 会社を子供達に譲り、悠々自適の生活を送ってきました。

 そんな守田さんを変えたのは、 69歳で、地域の運動会を見物に行った時、たま

 たま40歳の走者が欠員で地域の体育委員だった福田良昭さんに依頼されて、急遽

 出場した守田さん、40台の若い走者を尻目にぐんぐんスピードを上げて、二位で

 ゴールしたのです。


福田さん

 “スカートを穿いてこられて、走る状況ではなかった。転ぶ心配もありました。

  でも、本当に感動しました。”

 守田さん

 “あの時の状況は一生忘れません”

 ご自分の秘められた能力に気づかれた守田さんは、世界の陸上選手達と戦うために、

 地域の小学生の陸上クラブに入りました。タイヤ引きの筋力トレーニング、階段かけ

 上り、ハードな練習を子供達と一緒にこなしました。
 
 守田さんのライバルは小学校一年生たちです。

 走るタイムが同じだからです。

守田さん

 “一年生も私と走る時は一生懸命です。
  
  私も負けてたまるかと、今は一年生の方が強いんです。腹が立ちます。

  何で一年生に負けたのかと・・・。“

  世界記録を5回も塗り替えた守田さんの2年前の映像が放映されていました。

  同じ年の方がおられないので、お若い方々と一緒に走られていました。 

  タイムは23秒15。世界新記録で、10年前にカナダの選手が出された記録

  より100分の3秒早いものでした。

 昨年も記録向上を目指して其の大会にのぞみましたが一秒遅くなっていました。

 守田さん

“19秒で走っていたのが、今年は20秒、 来年は21秒と毎年1秒づつ遅くなるの

 が分かっています。其れをどうしたら、現在のタイムで止めるかが、一番の悩みです。

 年々衰えていく92歳の肉体、其のことをはっきりと自覚しながら、毎朝ベッドで

 自転車漕ぎの運動をします。

 一緒に住んでいる娘さん夫婦との朝食。野菜いっぱいの味噌汁、豚肉4切れ。生卵、

 大会に出場する前日には必ずうなぎを一匹食べるそうで、本当においしそうに食べる

 とか。

 
 週に三回守田さんが通っている介護老人施設の介護専門員藤井朝子さんによると

“要介護1ではあるんですけれど、日常生活動作では完全に自立されています。

 左目が白内障、緑内障とかで、殆ど見えない。右目だけの状態なので、バランスを崩し、

 9月に二度転倒した後、施設で、できる限りのトレーニングをしています。

 廊下を何度も往復して、5000歩を歩きます。

 マシンを使ってのトレーニングで、いためた肩と腕の筋肉、足腰の筋肉を鍛えます。

 10月上旬一ヶ月ぶりの練習を再開しました。

 守田さん

 “ものすごく楽しみにしていました。”

 まづ30メートル先まで練習。

 今年の全国大会まで後一ヶ月を切っていました。92歳の肉体の限界への挑戦が始まりました。


・・・何歳までやるんですか?

守田さん

“まづ95歳で記録を作り、100までいければいいんですけれど、足が動く間は100でも

105でも・・・。”

(つづく)




輝かしい女性達

2015-11-15 07:14:37 | 最近の出来事


皆様今日は、先日NHKテレビで団塊スタイル自分再発見で放映された

輝かしい女性達のお話です。

そこに登場されたお三方をご紹介しますね。

お一人目は92歳の世界一早いアスリート。

69歳の時、地域の運動会で、年代別の対抗リレーで、40台の走者が

欠場され、急遽69歳の女性が地域の体育委員だった福田良昭さんに

頼まれて、走ることに。

それで40台の人たちを追い越して2位でゴール。

お若い頃は卓球をされていて、陸上の経験はなく、69歳にして、

はじめてご自分の能力を知り、陸上を始められたという方です。

したがってマスターズ初出場は70歳の時。

マスターズ陸上と言うのは35歳以上の方々の世界大会で、

そこで、数ゞの新記録を打ち立てられているそうです。


次は59歳にして歌手としてデビューされた女性。なんと還暦の

時には、ファッシヨンモデルとして舞台に立たれました。

其の影には、激太り、親の介護、離婚、壮絶な人生を経て・・・・。

その女性の話。


“したいことが今はできているので、本当に一番いいかも・・・。”

最後は99歳の女性精神科医として、患者と向き合っている方のお話。

ご自宅はエレベーターのない3階で、階段は51段。92歳の時足を

骨折しましたが・・・

その先生のお話。

 “第一歩が怖い。踏み出せるかどうかが分かれ道。やればできる。”

(つづく)



日本テレビ皇室日記

2015-11-09 20:06:43 | 最近の出来事
日本テレビ皇室日記より

終戦後70年の今年、終戦を決める玉音放送

の原版が始めて公開されました。

実はその原版を保管していた缶の中から、もう一枚のレコードが見つかっています。

もう一つの玉音放送とも言える昭和天皇のお言葉を記録したものです。終戦直後の


困難を乗り切るために昭和天皇が国民に語りかけた音声の記録です。

今年8月宮内庁が公開した6枚のレコード、皇居の中で厳重に保管されていたものです。

再生してみると、5枚は終戦を告げる玉音放送の原版で、そして、もう一枚は、宮内庁

の職員も知らなかった玉音放送で、日付けは、昭和21年5月23日。

其れは終戦の翌年、天皇がいわゆる人間宣言をされた年のもので、レコードには昭和天皇

の食料問題に関するお言葉がおよそ2分間録音されていた。

“祖国再建の第一歩は国民生活、とりわけ食生活の安定にある。戦争の前後を通じて地方

農民はあらゆる生産の障害とたたかひ、(注;当時のかな使い)困苦に耐へ、食料の増産と

供出につとめ、その努力は誠に目覚ましものであったが、其れにもかヽはらず、主として、

都市における食糧事情はいまだ例をみないほど窮迫し、その状況は深く心を痛ましめるもの

がある。 これに対して、政府は直ちに適切な施策をするべきことは言ふまでもないので

あるが、全国民においても、乏しきを分かち、苦しみを共にするの覚悟を新たにし、同胞互い

に助けあってこの窮況を切り抜けなければならない。戦争による諸種の痛手の恢復しない国民

にこれを求むるのは誠にしのびないところであるが、これを切り抜けなければ、終戦以来、

全国民の続けてきた一切の経営はむなしくなり、平和な文化国家を再建して世界の進運に寄与

したいと言ふわが国民の厳粛、かつ、神聖な念願の達成もこれを望むことはできない。 

この際にあたって国民が家族国家の美しい伝統に生き、区々の利害をこえて現在の難局にうち


かち、祖国再建の道をふみ進むことを切望し、かつ、これを期待する。”

何故この玉音放送がなされたかというと、終戦後の日本は、焼け野原にバラック小屋が立ち

並び、家を失った人々が溢れ、混乱が続き、戦地や其れまで外国暮らしだった人々が引き上げ

、国内で暮らす国民の数がどんどん増え続けていき、その上、戦後の肥料不足や異常な天候で、

凶作になり、中国や朝鮮からの米が入らなくなって餓死する人々も増えていった。陛下は戦時中

も一汁一切と言う粗末な食生活をしておられたのを知らなかったった国民は、怒りを陛下に

ぶつけて、米よこせデモを繰り広げ、皇居坂下門から入り宮内庁当直主管に決議書を手渡したり、

25万もの人々が、デモを繰り広げるに当たり、日本を統治していたマッカーサー元帥が、

暴民デモを許さずと声明を出す騒ぎにまでなっていった。 度重なるデモに、陛下の玉音放送

が録音されて、5月24日にラジオで放送され、翌日の新聞に載った。その玉音放送の内容は

始めに書いたものである。


これは全く陛下のせいではなく、戦時中の海軍の地下の司令部がホテル並みの豪華なもので、

水洗トイレまであったと言うのに、陛下の御座所はごく粗末なものであったという以前放映

されたテレビの中にもあったように、陸海軍のおえら方は、自分達の生活だけは国家のために

なっているのだからと、国民の困窮には目もくれず、また、海外に送って戦争を実際していた

兵士達や、子供達の疎開先にはには十分な食料を送っていなかった状況のなか、陸軍の偕行社

海軍の水交社などでは贅沢三昧の暮らしをしていたのである。そんな陸海軍のお偉方に比べて、

陛下の何時も国民の上を思っていてくださったお暮らしぶりをただただ尊敬の念で私は思い出

している。

マッカーサー元帥はそんな日本に、いろいろとアメリカ軍の食糧を私達に分けてくれていた。
特に記憶に残っているのは特別大きい缶詰になっていた卵の黄身ばかりの粉の配給であった。