80ばあちゃんの戯言(2)

聞いてほしくて(つづき)

死亡告知書と死亡告知取り消し通知書

2015-07-31 14:00:47 | 最近の出来事
やっと少しばかり体力が回復してきたので、

夫の残した語学のテープやら、音楽のテープ

を整理し始めたら、NHKのなつかしのメロディー

が出てきた。

どうも途中から録音したらしく、西田敏行さんの

"戦後半世紀、千葉の小田さんからのお便りですと言う

言葉で始まっていた。、

其の方が戦後、復員して家に帰ったら、仏壇には自分の

立派なお位牌があって、母が確かめるように、自分の体を

触って、泣いて喜んだ。

父は何も言わず、喜びをか噛み締めていたようだったと。

それで死亡通知書と、その後、死亡取り消し通知書が

送られてきたので、コピーをNHK に送ってきたと

いう話。


 当時は、そういうことが往々にしてあったようで、

農家のお宅でご長男が戦死されたと言うことで、

農家は女手だけではトテモ無理だからと、親に説得されて、

嫁さんよりずっと年下の次男が長男の嫁さんと結婚して、

子供ができたところへご長男が復員されて、どうしたらいいか

と言うこともあったのである。




お祭り

2015-07-30 17:23:28 | 最近の出来事
7月25日の午後三時から、お祭りのお手伝いで、

ポップコーンの袋詰めやら売り子さんで、6時間

働きづめですっかり疲れ果てました。

当日と、後の月火水の三日間マッサージにいきましたが、

やっと少し人間らしくなってきました。

マッサージ代しめて8400円也。ご近所さんに、

”高いポップコーン代ですねと”、笑われてしまいました

つかれすぎて、眠ることも、食べることもあまりよく

できませんでしたが、それでも、念願の体重は落ちません

でした。(笑い)

昨年でもう辞めたかったのですが、代わりがなく、

他の人に迷惑がかかるので、やってしまったのですが、

リーダーが若い方なので、老人の体力のことを考え

なかったのでしょうね。お若い方だから、仕方がない

とも思いましたが、それでも、他の町でもあること

のようで、何か起こってからでは遅いと思い書くこと

にしました。

今まで、ポップコーンを300袋作っていたのに、

もっと売り上げを上げたくて、急に400袋にしたようで、

最初に私が今回はいくつですかと質問したのには答えて

くれませんでしたが、売り上げが390袋ということで、

ポップコーンを、サービスしましたから、材料は400個ぶん

に増えていたようでした。

焼いてくれたおじいさんは86歳、熱いしごとなのに、大丈夫

だったかしらと心配になりました。

老人は其の時にはできるのですが、後になって疲れが出るのです。

こういう売らんかなの考えはどうかと思います。事故があってから

では遅いのです。謝ってすむ問題ではないと思います。

他のところでも、今までできたから数を落とせないということが

よくあるとか聞きました。

毎年、どなたでも年をとっていきます。 人数に変わりなければ、

だんだんに作業の内容を軽減して行くのがあるべき姿ではないかと思い

ますが如何でしょうか? 急に百個、つまり、今までより3/4倍もの

重労働を強いてはいけないと思います。暑い時に、ただでさえ熱中症で

亡くなったりしているのに、おかしいとは思いませんか?

楽しいお祭りで終らせましょうよ。

戦争体験談(6)2015

2015-07-23 20:19:48 | 最近の出来事
氷屋さん

暑くなってきますと、カキ氷が食べたくなりますよね。

私の子供の頃には、夏に人通りの多いお店の前に、

大きな台を出して、上にカキ氷の器械を乗せ、そばに、

赤や青のちょっと毒々しい感じの色のシロップが並べられ、

かき氷がつくられていました。

氷イチゴやみぞれ(ただのお砂糖水をかき氷の上に掛けたもの)

などをお鍋などの入れ物を持って買いに行ったりしたのですが、

其の頃は、勿論、電気冷蔵庫はなく、氷冷蔵庫の時代で、

まだ其の氷冷蔵庫も、どのお宅にもあると言う代物ではなく、

扉は、二枚戸でした。

冷蔵庫の上の扉を開けると、上に氷を入れるところがあって、

下の方の扉を開けると、金網の棚がついていて、食材を

入れられるようになっていましたが、あまりたくさん入れる

ことはできませんで、長く保存すると言うのも無理だったのです。

氷は、氷屋さんが配達していましたが、風邪などの高熱が出た時

など、5銭か10銭持って買いに行くこともありました。

”氷ください”と言うと、すぐ隣の部屋で転寝をしていたおじさんが、

目をこすりながら出てきて、氷の倉庫から、大きな厚い扉をグイーット

開けて、中から大きな氷を取り出して、”いくらいるの?“と

聞くのです。

5銭とか10銭とか言うと、大きな鋸で、シュッ シュッと勢いよく

氷くずを飛ばしながら、目分量で氷を切っていくんですが、それが、

きちんと測ったように、切れているようで、何時もすごいなあと

思って見とれていました。

屏風ヶ浦の氷屋さんは、氷だけを扱っているようでしたが、

他の町では、炭屋さんが、氷屋さんを兼ねていたところが多かった

ようでした。

    (つづく)

戦争体験談(5)2015

2015-07-19 08:39:15 | 最近の出来事

1936年、226事件というのがありました。

2月26日に起こったもで、そう言われるのですが、

私が4歳半くらいの時のこと、朝起きてみたら、

見たこともないような大雪で、母に、今日は特別寒いから

と、赤い小さな花柄の合わせの着物の上に、真新しい

お被布を着せられて、うきうきしているところへ、何時もの

腹巻姿の上に法被をひっかけて、魚屋さんのお兄ちゃんが

雪を掻き分けながら、経木を片手に、御用聞きにやって

きて、母と祖母を相手に

”大変なことになりましたね“とひそひそ話。

私も話しに入りたくて、母にしつこく尋ねると、

”東京では、反乱軍がいろいろと問題を起しているので、

 危険だから誰も外へ出ないようにと言う戒厳令が出た”

 と言うことでした。



 子供心になんだかきな臭い話のようで、不安を多少

 感じた記憶があるのです。

注:

 経木というのは、杉やヒノキなどの木を薄く削った

 もので、当時は品物を包むのに使っていたのですが、

 お魚屋さんで、切り身やはんぺんなどを買うと、それで

 包んでくれていましたが、其の経木の方が紙より安かった

 のか、小僧さんは、何時も、経木を持ってやってきて、

 右の耳に挟んだ5,6センチぐらいのちびた鉛筆で、二、三字

 書いては鉛筆を舐め、四、五字書いては舐めと言う風で、

 何度もなめながら、お得意様の注文を経木に書いていました。

 
 魚屋さんと言えば、水仕事と縁の切れないお仕事、冬になれば

 両手に皸(あかぎれ)ができて見るからに痛そうでした。

 私が、”大丈夫?”と聞くと、お兄ちゃんは

 ”大丈夫でさあ。戦地の兵隊さんのことを考えれば、なんとも

 ありませんよ。”と、笑って見せました。



 話はそれますが、私が小学校一年生の秋、学校の帰り道

 でしたが、大嵐で、家の近くの小川が氾濫し、その横の細道を

 歩こうとしていたら、流れに飲まれてしまい、ぷかぷか浮いて

 いる所へちょうど、魚屋さんの御用聞きのお兄ちゃんが通りかかり、

“安藤さんのお嬢ちゃんが大変だよう”と言いながら引いていた

 自転車の上に私を抱き上げて、家迄送ってくれたのでした。

 小川は、其の先で、すぐ暗渠になり、魚屋さんの下をくぐり、

 また、外に出て、海岸まで百メートルほどで、嵐の日に、

 人通りは少なく、おそらくその魚屋さんのおにいちゃんに

 助けられなかったら、誰にも発見されずに、私は間違いなく死者の

 お仲間入りでした。


 それから、彼は数ヵ月後に応召して、中国の露と消えたのです。

 魚屋さんには器量よしの娘さんがいて、多分一緒にお店を持てる

 ようだと噂されていました。

 何時もニコニコして、トテモ優しいお人でした。
 
   (つづく)

荒武千恵子のブログ戦争体験談

2015-07-18 18:42:32 | 最近の出来事
数えの80歳の時に80ばあちゃんの戯言とい

うブログをはじめたのですが、昨年PCが壊れ、

新しいものに買い替えたのですが、それも、

悪いものに進入されたのか、どうしてもブログに

入れなくなってしまい仕方なく

”80ばあちゃんの戯言2”と、 

それまでの80ばあちゃんの戯言に 2

を加えて新しいフログをたちあげたのです。

前の80ばあちゃんの戯言にも見ろ色と戦争体験談

やら、知って得な情報が書かれています。

どうぞご覧ください。