とある病院で、名前を呼ばれて診察室に入ると、担当の女医さんが、
“あら、あなたが、あの荒武さんの奥さん?”とのたまわった。
“一瀉千里を走る”という言葉が私の脳裏をよぎった。
もう約13年も前の話である。
その病院で、がんの治療を受けていた夫が院内感染の肺炎で急死した。
その直後のことであった。
まだ幾日も立っていないのに、もう病院中の噂になっているのだなあと
びっくりした。
普段あまり病院とご縁がなかった私だったので、夫が入院中に自分の
健康診断をしておこうと思いたち、夫のお世話になっていた内科と、
眼科の検査をお願いしていた。
その時、女医さんは
“私の考えでは、多少の白内障はあるけれど、多分あなたは一生、
目の手術をしなくていいと思うよとおっしゃったのである。それ以来
検査の必要はないと思って眼科へ行かないことにしていたのである。
話がそれるが、夫はその病院で、その約二年前に検査で肝臓に出来た
ごく初期の癌を発見して頂き、検査中に癌に薬をかけて癌が消滅し
それから定期的に検査を受け、約一年半は何事も起こらずで、夫は
その担当医を信頼し、看護婦さんも親切であると、評価していたのだ。
亡くなる二ヶ月前にまた、同じところに癌らしき物が出来ているから
と翌月再検査して、結局4月15日に入院し、再度手首からカテーテル
を入れて、前回と同じ治療をすることになっていたが、その手術の朝
急に癌の周りにプラスチックを吹きかける治療に変わった。
場合によっては一ヶ月も高熱が続くという話であったが、夫は四日目
には平熱になり元気で病院中を歩き周り、担当の先生が、とても喜ば
れて、もう安心とおっしゃったが、その翌日急に具合が悪くなり,
次の朝に亡くなった。
前の晩、夫の部屋に泊まるつもりで簡易ベッドをお願いしたら、4月
に入ったばかりの看護婦さんが、あわてて、先輩に相談にいき、
ここは、完全看護だからお引き取りくださいということで帰宅を
余儀なくされたのである。
夫は其の日、僕は今夜死ぬといっていたのであるが、それほど具合が
悪いとも思えなかったが、夫の言葉が気になって泊ろうとしていたの
である。万が一と思って着の身着のままで寝たら朝5時過ぎに電話が
かかり、息子と飛んでいったら、夫の意識はもうなかったようであった。
ベッドの横を叩くと反応すると言われたが、そんな気配は全くなく、
それから心電図をとりますだの、レントゲンを取るがそのためには注射を
しなければいけないだのといわれて、其の後夫は寝台車で運ばれていったが、
すぐに呼びに来られて、いってみたら、夫の体中にチアノーゼが出来ていて、
それを見て、私は愕然とした。
20分は心臓マッサージをしていますといわれたが、夫が連れて行かれてから
物の5分位で呼ばれていった気がして、なんとも解せなかったが、何の証拠も
なく、いくら私がわめいても夫が息を吹き返すわけもなく、今は生きている
先生や看護婦さんの方が大事ではないかと思うしかなかったのである。
私が騒げば夕べ私が簡易ベッドをお願いした看護婦さんは4月に入ったばかり
の新人さんで、まだ3週間にしか立っていない。きっと精神的に何らかの
ダメージを受けてしまうかもしれない。
先生だって、一生懸命やってくださったのに、週末の休みは必要なはず。
人手が足りないから、誰も来てくれなかったのだろう。もしここで私が何か
言ったら、医師不足、看護婦不足の事態はもっと悪化してしまうと思った。
隣のベッドの方のお話では、夫はベルを押して看護婦さんを呼んだが、来ない
ので、苦しい息の中、何とか這って廊下に出て、しばらくもがいて・・・だった
とか。夫が、苦しみながら、廊下を這っていった様子が想像されて、可哀想で
たまらなかったし、苦しかったがじっと心の中で耐えるほかはなかったのである。
ところで、その後白内障の心配することなく13年目になっていたが、
入浴中に、目を大きく開いたり、ぐるぐる回しすなどの目の体操をしていたら、
視力がよくなったのか、目めがねを掛けるよりも掛けない方がよく見える状態
になって、以前使っていためがねを取り出したりしていたが、なんとなくしっくりと
いかないので、目がねを作り変えるかどうしようか迷っていた。
ブログを書くときには、めがねをかけずに大体書ける。画数の多い感じだと虫眼鏡で、
ちゃんと書かれているか確かめたりしていたのであるが、普段だって、目がね要らず
でなんともないという気がしていたのである。デモ、最近肩が痛くて、マッサージ
をしても痛くてたまらなくなったので、もしや眼から来ているのではないかと気に
なって眼科へ行った。立派な白内障だということで、新年早々手術をするように手
配してあげるということになってしまった。
私が85歳まで生きるということは先生の多分想定外だったのかもしれない。
もっと早くあの世に行っていれば、白内障の手術は要らなかったのである。(笑い)
“あら、あなたが、あの荒武さんの奥さん?”とのたまわった。
“一瀉千里を走る”という言葉が私の脳裏をよぎった。
もう約13年も前の話である。
その病院で、がんの治療を受けていた夫が院内感染の肺炎で急死した。
その直後のことであった。
まだ幾日も立っていないのに、もう病院中の噂になっているのだなあと
びっくりした。
普段あまり病院とご縁がなかった私だったので、夫が入院中に自分の
健康診断をしておこうと思いたち、夫のお世話になっていた内科と、
眼科の検査をお願いしていた。
その時、女医さんは
“私の考えでは、多少の白内障はあるけれど、多分あなたは一生、
目の手術をしなくていいと思うよとおっしゃったのである。それ以来
検査の必要はないと思って眼科へ行かないことにしていたのである。
話がそれるが、夫はその病院で、その約二年前に検査で肝臓に出来た
ごく初期の癌を発見して頂き、検査中に癌に薬をかけて癌が消滅し
それから定期的に検査を受け、約一年半は何事も起こらずで、夫は
その担当医を信頼し、看護婦さんも親切であると、評価していたのだ。
亡くなる二ヶ月前にまた、同じところに癌らしき物が出来ているから
と翌月再検査して、結局4月15日に入院し、再度手首からカテーテル
を入れて、前回と同じ治療をすることになっていたが、その手術の朝
急に癌の周りにプラスチックを吹きかける治療に変わった。
場合によっては一ヶ月も高熱が続くという話であったが、夫は四日目
には平熱になり元気で病院中を歩き周り、担当の先生が、とても喜ば
れて、もう安心とおっしゃったが、その翌日急に具合が悪くなり,
次の朝に亡くなった。
前の晩、夫の部屋に泊まるつもりで簡易ベッドをお願いしたら、4月
に入ったばかりの看護婦さんが、あわてて、先輩に相談にいき、
ここは、完全看護だからお引き取りくださいということで帰宅を
余儀なくされたのである。
夫は其の日、僕は今夜死ぬといっていたのであるが、それほど具合が
悪いとも思えなかったが、夫の言葉が気になって泊ろうとしていたの
である。万が一と思って着の身着のままで寝たら朝5時過ぎに電話が
かかり、息子と飛んでいったら、夫の意識はもうなかったようであった。
ベッドの横を叩くと反応すると言われたが、そんな気配は全くなく、
それから心電図をとりますだの、レントゲンを取るがそのためには注射を
しなければいけないだのといわれて、其の後夫は寝台車で運ばれていったが、
すぐに呼びに来られて、いってみたら、夫の体中にチアノーゼが出来ていて、
それを見て、私は愕然とした。
20分は心臓マッサージをしていますといわれたが、夫が連れて行かれてから
物の5分位で呼ばれていった気がして、なんとも解せなかったが、何の証拠も
なく、いくら私がわめいても夫が息を吹き返すわけもなく、今は生きている
先生や看護婦さんの方が大事ではないかと思うしかなかったのである。
私が騒げば夕べ私が簡易ベッドをお願いした看護婦さんは4月に入ったばかり
の新人さんで、まだ3週間にしか立っていない。きっと精神的に何らかの
ダメージを受けてしまうかもしれない。
先生だって、一生懸命やってくださったのに、週末の休みは必要なはず。
人手が足りないから、誰も来てくれなかったのだろう。もしここで私が何か
言ったら、医師不足、看護婦不足の事態はもっと悪化してしまうと思った。
隣のベッドの方のお話では、夫はベルを押して看護婦さんを呼んだが、来ない
ので、苦しい息の中、何とか這って廊下に出て、しばらくもがいて・・・だった
とか。夫が、苦しみながら、廊下を這っていった様子が想像されて、可哀想で
たまらなかったし、苦しかったがじっと心の中で耐えるほかはなかったのである。
ところで、その後白内障の心配することなく13年目になっていたが、
入浴中に、目を大きく開いたり、ぐるぐる回しすなどの目の体操をしていたら、
視力がよくなったのか、目めがねを掛けるよりも掛けない方がよく見える状態
になって、以前使っていためがねを取り出したりしていたが、なんとなくしっくりと
いかないので、目がねを作り変えるかどうしようか迷っていた。
ブログを書くときには、めがねをかけずに大体書ける。画数の多い感じだと虫眼鏡で、
ちゃんと書かれているか確かめたりしていたのであるが、普段だって、目がね要らず
でなんともないという気がしていたのである。デモ、最近肩が痛くて、マッサージ
をしても痛くてたまらなくなったので、もしや眼から来ているのではないかと気に
なって眼科へ行った。立派な白内障だということで、新年早々手術をするように手
配してあげるということになってしまった。
私が85歳まで生きるということは先生の多分想定外だったのかもしれない。
もっと早くあの世に行っていれば、白内障の手術は要らなかったのである。(笑い)