80ばあちゃんの戯言(2)

聞いてほしくて(つづき)

声掛け運動

2015-08-30 09:57:39 | 最近の出来事
私には、長年心ひそかに決めて実行している運動がある

運動なんていうのもおこがましいが、それに、効果は勿論

わからないが、85歳にもなると、誰か賛同者を募りたく

なった。後がないからである。ここまで書いてくると、

きっと皆さんはどんな大事(オオゴト)だろうかと思われて

いるに違いない(ウ フ フ)

まあお聞きください。

若い時から、母の看病やら、苦しいことが多かった私の人生、誰

か友達と話がしたいと思っても時間に追われてどなたとも疎遠に

なってしまっていた。そんな時、どなたかにやさしい言葉を

掛けられると、急に元気が出てきたりしたのである。

それで、40台ぐらいだった或る日、私のような人が多いかもしれ

ないと思い、勇気を出して、できるだけ知らない方に声を掛けて

みようと思い立った。と言っても、男性にはよっぽど弱って

いらっしゃって、何か助けが必要ではないかと言う時には

”大丈夫ですか?”と声を掛けることはあったが、それ以外は

声を掛けていないのだが、随分多くの女性達に声を掛けてきた。

そのお蔭か自分自身がだんだんおしゃべりになってきた気がして

いる(笑い)

通りがかりの方々や電車やバスの中で、ちょっとご挨拶をする。

まづは気候の話。その方の持ち物が素敵なものだと、其れを素敵

ですねと声に出して褒める、子育てが大変だろうと思われる世代

には、可愛いお子さんですねとか、お孫ちゃんの幼稚園の送り迎え

などなさっているらしい方には、そういうことをなさっているから

お若いのですねとか、思ったままを声に出す。

あなたにお会いすると、何時も褒めてくださるので、トテモ元気が

出ますと言ってくださる方もおられます。日本の男性はあまりにも

奥さんを褒めないのではないでしょうか、たまには褒めてあげても

いいのでは? お節介すぎる一言でしたか?

たまには、終点から乗ったりして、長い間お話できたりすると

お別れの時には、またお会いしたいですねということになることも

しばしば。

人のためにと始めたものが、自分のためのストレス解消になって

いたり、毎日他人様とつながれて幸せなのです。

ある時、笑ったら損だと言わんばかりの怖いお顔の女性を見つけた。

今まで余程苦々しい思いをされてきたのかなあと思いながら、

勇気を出して、

“お寒くなりましたね“と言ってみた。

彼女の頬の筋肉が多少緩んだかなと言う希望的観測、翌日見かけた

時にも、声を掛けたが、なんとなく、前日よりは筋肉の動きがよい

のかなと思ったくらい、デモ、その後、お見かけして、声を掛けたら、

にっと微笑んでくれたのだ。

私は思わず心の中で万歳を叫んでしまった。

ちょっと脱線するが、私には癖がある。たとえばトイレットペーパー

でも、巻きの具合で、どのくらい長い間そのロールがもつのか、他の

ものではどのくらいかと調べて、一個いくらで、一ヶ月にどのくらい、

では一生これを使うとしたら、他のものを使う場合と比べて、いくら

貯まるかという大分大雑把な計算をする。そう言うと、ばあさん、

さぞ溜め込んでいるなと思われるでしょうが、ところが、どっこい、

これはと言うものを見つけると若い方に上げてしまい、”多分これを

使うと、あなたの一生で、大体12万円ぐらいこの分だけで貯まる

と思うわ“ と言う風。これでは私の懐に丸いものが貯まる筈がない。

(大笑い)

でも、たとえば、電気代、私が、電子レンジを何時も使う時だけ

コンセントに差込んで使うと待機電力が要らないので、多少節約に

なるのではないかと思って、面倒だとは思いながら毎回取り付け

取り外しているのだが、これを全国の人が、いろいろの電気器具で

やっていただけるとしたら、原発の必要性はなくなるかなあと考え

るのだ。勿論細かい計算なんて私にはできていない。でも、毎日の

小さいことの積み重ねが大きくなるのかなあと言うのが、8

0ばあちゃんの考え。

毎日、暗いニュース。恐ろしい話が続いている時、誰しもストレス

が溜まって行き、いつか病を引き起こす原因にもなりかねない。

人々に元気になってもらうには、私達一人ひとりがお互いに元気

付けられるような世の中になれば、多くの病気の根源になりそうな

ストレスが少しは減り、医療費がほんの少しでも減るとか、介護

費用が減るのではないかと、私は勝手に思い込んでいるのです。

皆さん、お金の掛からないこの運動(?)あまり期待できない

かもしれないこの運動ににご参加くださいませんか?

自殺

2015-08-29 12:16:10 | 最近の出来事
夏休みが終わり二学期が始まった直後のこの時期、子供さん達の

自殺が多いと聞いてびっくりしています。

近頃、子供達だけではなく多くの自殺者が出ているのではないか

と胸を痛めているのです。

私は自殺しようと思ったことはないのですが、死にそうと思った

ことは何度かあります。

その一つは戦争中、朝から晩まで空襲が続くようになって、母から、

どうせ死ぬなら、家族一緒に死にたいから、もう工場へは行かない

で欲しいと言われたのです。

途端に、昔、楠正行が、”忠ならんと欲すれば、孝ならず“と嘆いた

と言われるその言葉が、脳裏に浮かびました。


当時、工場を欠勤すれば、憲兵隊が捕まえに来て、拷問されると

言う噂が広まっていました。

母に従えば、憲兵隊が待っている。工場へ行けば、母の本当に

切なる願いを無視することになり、親不孝になってしまう。

母にそのことを言えないまま、誰か家に近づいてくる足音にも、

敏感になるほど、毎日不安を抱えて過ごしていました。

戦争が終わった時、その不安はなくなって、一時的にほっとした

のですが、其れも束の間、アメリカ兵が進駐してきて、婦女子は

どんなことになるかわからないから、どこか山の中に逃げろと

言う話が巷に広がりました。山の中に逃げるといっても、手ぶら

で逃げるわけにも行かず、そんなところに知り合いもなく、

一難去って、また一難と言う感じがしました。

その数日後、当時保土ヶ谷に住んでいましたが、本牧の伯母の

ところへお野菜を持ってお使いに行ったのですが、その途中、

アメリカ兵達に二度追いかけられました。

最初の兵隊達は、こんな小さい子を襲ってもと思ったのか、

余り長く追ってこなかったのですが、次に追いかけてきた

7,8名の水兵達は、割と長く追いかけてきたのです。

横浜の海岸通のまっすぐな道を何処までも何処までも追い

かけ来ました。そのうち、6名は割りと早く戻っていった

のですが、身長2メートルはあろうかと思える大男と、

1メートル60センチぐらいに思えた小柄な二人だけが、

何度振り返っても、ずっと後を追いかけて来ていたのです。

私は焼け残ったおんぼろのちょっと小型の自転車にお野菜を

たくさん積んでいましたし、栄養失調で、坂を上る時には足

ががくがくするほどでしたので、何処まで捕まらないで行か

れるかと、ものすごい恐怖のなか、ただただ夢中で自転車を

漕ぎ続けるしかありませんでした。

でも、ふと振り返った時に、その二人がくるっと、私に背を

向けて何か話しながら戻って行くのが見えたのです。

ホッとした途端に、自転車のチェーンが外れました。

もう無我夢中で、チェーンを取り付けたのですが、もし、

そのとき、彼らが振り返ったらと思うと、気が気ではあり

ませんでした。

その時の夕日に背中を向けて戻って行く水兵達の姿が

いまだに忘れられません。

また、36,7歳の頃、私は幼稚園の先生の免状を取るために

保育科に通っていました。

当時は茅ヶ崎在住で、横浜の伯楽の学校に通っていたのですが、

夫は午前様、息子達は、5年生と一年生でした。家事と学業の

両立はただでさえ、大変でしたが、二年目の夏の終わり、父が

喀血して、結核病棟に入院したのです。

上の弟は病気療養中、下の弟は大学生。妹たちには、それぞれ

赤ん坊がいましたので、結核病棟へ連れて行くことはできません

ので、其れまで父がお手伝いさんを相手に寝たきりの母の世話を

してくれていたのですが、父と母の世話がすべて私にのしかかって

きました。

後、7ヶ月で免状をいただけるのに、学校は辞めたくありませんでした。

幸い、夫の弟の紹介で母を熱海の国立病院に入院させることができました。

朝は家事をこなし、夫や息子達を送り出し、自転車で茅ヶ崎駅へ、

横浜で東横線に乗り換えるためには駆け足で、白楽の駅からは、

遅刻しそうだったので、今思いだしても大変だった学校までの坂道を

駆け上って、前の車輌に乗っていた学生たちに追いつきました。 

お昼休みになると、お弁当は食べず、父の病院へ行くために坂道を

駆け下り、病院では、着替えを置いて、父にメモを残し、洗濯ものを

持ち、また、駆け出して、学校に戻りました。

その間、電車を待つ時間があれば、牛乳を買い、一本か2本を飲み、

お昼の代わりにし、何とか午後の授業に間に合わせました。

放課後は、週一回、母のために熱海の病院へ行き、母の家政婦さん

にお金を払い、必要なものを揃えたりして、母と話しながら、病院食

を食べさせて帰ってきていましたが、家に帰った途端に次の問題が

出たりしていました。

母はホルモン剤の誤用で、リュウマチのように手足が変形していた

ので、リハビリのためにこういうものを用意してくださいと病院から

言われるのですが、そこら中探し回っても母にあうものがないので、

結局、何とか工夫して作って持って行くという風でしたし、家政婦

さんが悪い人で、変えたくても、家政婦会で何か言いふらされると、

母の立場がなくなるので、其れもできず、ある時には、領収書が

あるのに、使ってみたら、使い出がなかったと家に電話してきたの

です。父と相談して、母のために、泣く泣く二度お金を払いに、

また時間を使って熱海までいったこともありました。

一つ終わると、その晩に、また次の課題が突きつけられる状態でした。

考えようによれば、一度に二つ起きないのがよいと思うよりありません

でした。

疲れも極限状態のとき、父が自分で先生に交渉して退院してしまい,

暮れのことで、お正月の準備も増え、一月の4日に夫が出勤した後、

私は、どうにもこうにもへとへとで、コタツから出られず、たまり

にたまった家事もしなければと思いながら、背中の痛みに耐えてい

ました。

そこへは母方の祖母の妹が、家族の車で寄ってくれました。

やっと炬燵から出て行った私を見て、

”大変だろうと思って寄って見たけれど、あんまり無理しすぎないように“

と、お茶も飲まず帰っていきました。

そのおばあちゃまの言葉と、保育科の生活科学の先生からの年賀状で

私は何とか、勇気を奮い起こして、また、毎日の生活に戻れたのです。

先生から

“あなたは、今大変なご様子の中、頑張っておられるようですが、

 あまり無理をなさって体を壊さないように”

 と、優しいお言葉をいただいていたのです。

私が今、言いたいことは、もう限界と思っていても、一晩寝て

から考えようとか、あまりあわてて結論を出さない方がいいと

思うのです。

どうしても私達はまじめに考えすぎるのですが、ある程度、時

間が解決してくれることもあるのです。私には、何度もその経験

があったからこそ言えるのです。

後で考えてみたら、こういうやり方もあったとか、自分ひとりと

思っていても、誰かが見ていてくれることだってあります。

あまり結論を急がないで、人生、少しだけ寄り道したり、のんびり

と何も考えないで過ごすのも許されるのではないかと思いますし、

その経験が後で人様の役にたつことだってあるのです。

もっと、急がないで、無駄な時間を持ちましょう。

遊びも大事。人様に対して、悪いことをしなければ、

神様がきっと助けてくれます。

今の生活や状態がすべてと思わないでください。

環境を変えるとか、体を休めてください。

どんな経験も人生生きていれば無駄にはならない

と母がいっていましたっけ。


兵役

2015-08-26 12:14:04 | 最近の出来事
兵役と書いても、何て読むのかさえお分かりにならない

方ゞもおられると言う平和で結構な時代が70年も続いて

きたのですが、もしこのまま安部総理の望まれるとおり

の政策が全部認められてしまって、何か事が起こった

時には、自衛隊員が対処することになるわけですが、

それだけですむ筈がないと私は心配しています。

今まで自衛隊員達は、一人の外国人も殺さず、無事

帰国されたと言われていますが、いろいろ大変な思いを

されて、帰国された自衛隊員の中には、精神を病まれて

自殺された方ゞも少なからずあると聞いております。

自衛隊員の中には、そんな事態になったら、もしかしたら

自衛隊員を辞めたいと思われる方が出てくるかもしれません。

亡くなったり、ご病気になられたりすることだって有り得ます。

有事の時には少しでも人数を増やしたくなるのではないかと

思われるのですが、そういう時はどうなるのでしょうかね?

私にはもう余り時間が残されていないわけで、余計な取り越し

苦労でしょうか?

今は中国とわが国の関係はお互いに助け合って経済を盛り上げ

ていかなければならない時代だから、そう簡単に戦争にはなら

ないとか、いろいろな説がありますが、戦争と言うものは、時

の政府が戦争をするつもりがなくても、一部の不心得者が、

きっかけを作ってしまって、重大な方向に発展させてしまう

ことだって、あるのです。これから長いこと生きていかなけ

ればならない、子供や孫、曾孫たちが、徴兵されることのない

ように祈るばかりです。

父の思い出

2015-08-23 16:41:27 | 最近の出来事

昔、一年志願兵と言う制度があったそうだ。


父はどうもその制度を利用して、予備役の将校に

なったようで、多分そのときに徹底的に正確な

地図を描くことを叩き込まれたようであった。

私達をお使いに出す時には、何時も地図を描いて

渡してくれた。時には、口で言ってくれただけ

だって覚えていられるのにと、内心で思ったことも

あったけれど・・・。

でも父の地図は何時も丁寧で正確だった。

父が何かのお祝い事で多少のお酒が入ってすごく

ご機嫌になって自慢話を始めたことがあった。

志願兵当時、甲府連隊で大演習があった時に部下を

何人か連れて斥候に出され、父が正確な地図と情報

を書き、味方を大勝利に導いて、最後に、講評で、

その当時の連隊長だった東条英樹さんから

“安藤少尉 サーベルを上げろ”

とお褒めの言葉をいただいたといかにも嬉しそうに

話していたことがあった。


一年志願兵制度とは、弟に聞いたところによると、

昔は、中等学校卒業程度以上の学力があると認め

られると、お金を出して士官になれる途があった

ようで、いくら出したかは定かではないが、どうも

食費程度のことだったようだが、金持ちだけを

優遇するという批判が出たので、昭和のはじめには、

幹部候補生制度ができ、中学卒以上の学力があると

認められたものには一般に、士官への途が開かれた

そうである。

その後の成績で、士官に任命されたり、下士官に

なったりしたそうだ。

そうして予備役の少尉になったら、軍用行李の中に、

軍服、サーベル、軍帽、軍靴、水筒、ゲートル

(尉官は上等な茶色の皮でできたもので、

 左右の外側の上下にバックルがついていた)

 などの必需品をいつでも手元に自費で用意して

 おかなければいけなかった。


学徒動員

2015-08-22 18:43:07 | 最近の出来事
今日はふれあいの丘の地区センターで、戦争体験談を

お話させていただくことができてありがたいことだと

思いながら帰ってきました。

夕方、NHK テレビで、水族館のペンギンやくらげなど、

いろいろな可愛い赤ちゃんたちが取り上げられて、ずっと

吸い込まれるように見入ってしまっいましたが、飼育員さん

達の赤ちゃんに対する優しさと、食事の与え方にいろいろ

工夫されていたのを拝見して、どうしても書いておかないと

と思って、PC に、向っているところなのです。

いままで、学徒動員についてお話させていただく時には、

2度目の学徒動員で、海軍航空技術省支廠の釜利谷の寮生活

での食事についてお話させていただいたことも何度かあった

のですが、そういうときにはどうしても時間の制限があるので、

ひどい食事であったと言う事実しかお伝えしていなかったのですが、

私達の食事を作ってくださった方ゞにもいろいろご苦労があ

っただろうと言うことを、どうしても書いておかないといけ

ないと思ったのです。私達の釜利谷での生活が始まったのが

もう敗戦直前とも言える、6月23日だったので、今から考えれば、

仕方のないことだったと思えるのですが・・・・・、

最初の晩はさっぱの煮付けと、お米が何処に入っているかと思う

くらいの雑穀ばかりが目に付くご飯でした。

大豆から油を絞った後のものを乾燥させた豆かすと呼ばれていた

ものとか、大麦の押し麦、とうもろこしの砕いて乾燥させたもの、

高粱などの混じったお雑炊でしたが、灯火管制下の薄暗い電灯の

ともる中の始めての寮のまずい食事が、これからの寮生活への不

安を募らせるに十分なものでした。

隣の棟には山形県から私達より2,3歳上の女学生達が大勢おられ

ましたが、山形は米どころ、時折お米が届くのを、私達はただ、横目

で見ていたのです。

3週間後、初めて帰宅を許されて、寮からお弁当を持たされましたが、

相変わらずの雑穀ご飯が少しばかりに、たくあん半分に切ったものが

たった4切れ、しかも家に帰った頃にはアルミの弁当箱の片側半分に

寄ってしまっていました。それを母が見て、

"こんな小さい子達を働かせて、お国はこんなものしか食べさせて

くれないのかと泣きました。

初めての晩に出たお魚の名前を母に聞きましたら、ああ、多分、

それ”さっぱ”と言うのよ。お百姓さんが肥料に使うものだわ”

と、言われたので、それがおかずだったとは言えませんでした。

その後ある日突然にお刺身が3,4切れでしたが、夕食のお膳に

上りました。みんなで、大喜びでいただいたのはいいのですが、

みんなそろって下痢をして、工場を休みお小言を食いました。

後で、其のお刺身は寮の賄いのおじさんの最後の日で、出征

される前にせめて少しでも子供達を喜ばせようとされて、奔走

された挙句のご馳走だったそうでした。おじさんにお会いした

ことはありませんでしたけれど、お気持ちには感謝しなければ

と思っております。