80ばあちゃんの戯言(2)

聞いてほしくて(つづき)

スーパー耐性菌

2016-11-30 10:52:15 | 最近の出来事
今朝のNHKテレビあさイチで放映されていたのが

”スーパー耐性菌”

どんなお薬もどんな抗生物質も効かないこわーい

菌があるそうで、それがスーパー耐性菌と言うのだ

とか。

大事なことだと思って急いで、録画しておいたの

ですが、うっかり消してしまいました。

ほんの短い間でしたが、放映されていたときに、

ちょっとメモしたものを元に書いています。

大曲貴夫医師によると

1)健康体であれば、どんな菌が体内にあっても

  大丈夫である

2)必要がなければ出来るだけ抗生物質を服用しない

  事が大事

3)医師からいただいた抗生物質は、ちゃんとその時に

  飲みきってしまうこと。

  残しておいたものを後で、何かの時に飲んではいけ

  ない。

4)残してしまった薬は、自分の判断で飲んではいけない。

  実際に飲みきらないとどうなるか、途中でやめてしまうと

  菌が体内に残り強くなり、 増えてしまい、病気が治らな

  くなる。
  
5)癌その他、いろいろな病気を持っている方は特に注意

  しないといけない。

  

スーパー耐性菌は今までのいろいろなお薬に対抗して出来て

しまった菌のようです。

くれぐれもお気をつけられてくださいまし。

私の人生(30)

2016-11-29 19:11:37 | 最近の出来事
太平洋戦争が始まってから、暫くは米軍の

飛行機の航続距離が(一回の給油で飛ぶ事

の出来る最長距離)が短くて、中々日本ま

で飛んでこれずで、空襲がありませんでし

たが、翌年の4月18日、始めて空襲警報

が鳴りました。

全国の何箇所かに来た飛行機のうちの二機

が東京横浜に飛来したそうです。

土曜日で、朝から気持ちよく晴れ上がった

日でした。

当時は土曜日は休日ではなかったので、私達

は学校から同じ町内の子供達が、高等科の

生徒さんを先頭に二列に並んで帰宅しました。

空襲警報がなっても、やっと見えるほどの小さ

な機影が上の方にあるのは目にしたのですが、

日本の飛行機も飛行場から飛び立っていて、

全く区別がつきませんでした。

高射砲の音はたまにするのですが、当たった

ようにも見えなくて、なんだか拍子抜けの感じ

で、そのうち警報が解除になりましたが、軍の

機密だったのか、何の報道もなく、中村橋あた

りに焼夷弾が落ちて、その家の奥さんがご飯の

入っているお櫃を其の上にかぶせたら、忽ち火

が消えたと言う話がまことしやかに伝わってき

ました。

一説によると男のお子さんが一人亡くなられた

とか。真偽は全くわかりませんでしたが、、、。

父が大阪に転勤を命じられて、家族で大阪に行

くことになり、小学校へ最後のお別れに行った

日がその空襲日でした。

その後、父の姉の家のお世話になり、4月20日

の月曜日の朝の急行で横浜から大阪へ行ったので

すが、当時は急行で9時間、普通列車では13時

間もかかったのです。

私達が住むことになったのは南田辺小学校の校門

の前にある雑草だらけ野原の南西側にある三軒

長屋の真ん中で、二階家でした。

二階に上がると、四畳半の部屋の外に物干しが

あったのです。私達は屋根の上にある物干しが

珍しくて、兄弟三人でわいわい言いながら登って

楽しみました。

玄関の右横にはお風呂があり、いわゆる五右衛門

風呂で、関東大震災の後、京都の同志社に転校し

ていた母は五右衛門風呂のことを知っていて、何

でも燃やせて、便利だそうよと喜んでいましたが、

私は東海道中膝栗毛の弥次郎兵衛喜多八のエピ

ソードを思い出し、なんとなくおっかなびっくり、

そっと中蓋の上にのった記憶があります。 

それよりもお風呂場への出入り口が狭くて、私達

家族には問題がありませんでしたが、東京から

出張してこられて、私の家にお泊りになった方が

太っておられたので、お風呂に入られる時、入り

口が狭いので、入れるのかなあと思ってそっと後

ろから覗いてしまったのですが、横向きに、そっ

と、少しづつ入っていかれ、何とか入られたので、

ホッとしましたっけ。

86才の覚悟

2016-11-27 11:24:59 | 最近の出来事
今日のブログをご覧になられる方々は、いよいよ

80ばあちゃん頭に来たかと思われるかもしれません。

(笑い)

そう思われても仕方のない年齢です。デモ、デモ、私

は、大真面目です。



このところ、私は大好きな囲碁にはまっていました。

デモ、囲碁は一緒に囲碁を打っていただける人が居ない

ことには上達は望めませんし、励みにもなりませんし、

楽しくもないのです。

この秋は、囲碁初心者の私に対して、”待った”をしたり、

最後に数える時に策略を用いて、地を数える時にごまかし

たり、そんなにまでして勝ちに拘りたいのかとあきれる程

のことがままありました。勿論そうではない方々が殆どで

したが、其の上、あるグループの方からあることで濡れ衣

を着せられた上、真実を知らないで、初めてそこで見かけ

た人たちにまで、私がしてないことで、罵倒され続けまし

た。

本当に、何を言っても私の言葉は聴いてももらえず、彼女

が嘘をついていた人を信じて、私をののしり続けたのです。

私は、そんなけちなことをしたことは一度もありません。

本当に、ショックでした。デモ嘘をつく人はその上塗りは

また嘘で固める人でしょうから、上手だと思います。そんな

人に、嘘をつけない人間は勝てるはずがありません。

私は体調が悪いからといって、その関係を絶ちましたが、

他の方とお会いしたいし、碁を打ちたいしでしたが、あき

らめました。お釈迦様もお若い時にひどい目に合わされて

同じ様な決断をされたと聞きました。


月に二度だけご一緒できるグループの方々は紳士でそんな

ずるいことはなさいませんのでとても嬉しいのですが、

デモ、月に二度だけではあまりにも少ないのです。

日本棋院の方へ行けば、多少ちゃんと打つ方にお会い

できるかもしれないと、23日の級認定試験にチャレンジ

してみたのですが、最所のお相手は新幹線できたという方

で、とても紳士的な方で、打った後、

”どうやったら石が取れるのか解りました。勉強になり

 ました。優勝まで行ってください!”

 と握手してくれました。

次の方は女性でもう五年もの間月5回はうち、あちこち大会

にも出ておられるという方で、とても勝てる相手ではありま

せんでしたが、気持ちよく終わって、ご一緒にお茶を飲み、

三笠山やら、飴など差し上げたり出来ましたが、三人目の方

がひどい方でした。

その男性は終わった後、ここも、此処も本当に上手に取られ

ましたねと、言いながら、最後に、私の白地と彼の黒地の

並んでいたところで、私の白地約30目を自分の地だと言い

張りました。あっけにとられました。どう考えたって、白地

のところを黒だと言い張られたのです。

私は手を挙げて審判を呼ぶことも考えましたが、言い争いは

出来ない性質ですし、その先につかれる嘘が予測できません

のでしたし、大声で喧嘩したくもなかったのです。


それで負けてしまいましたが、その男性は言い訳のように

ずるい人だと、碁盤の横で石音を立て、相手が、打ったと

誤解させて、相手がどこかに打ったら、反則までだと言って

勝利を手にする人も居ると言われました。

何をか言わんや!  そんなことをして勝って楽しいんで

しょうか?  


その後、私は次の自分の相手が決まるまで係りの人たちの

前に立っていましたら、私が、何か言いつけ口をするかと

思って、彼はずっと私から目を離しませんでした。

最後の試合は1級下を望んでおられた方で、強いと思いま

せんでしたが、私は、前のことを引きずってしまって、

気乗りがしませんで、はじめは勝っていたんですが、最後

に負けてしまいました。

デモ、係りの方には楽しかったですとねぎらって帰っては

きましたが、、。



帰りの半蔵門線の中で素敵な60台の女性と隣り合わせになり

ました。

その方とおしゃべりする中で、若い頃は丸の内三菱中9号館に

勤めていましたが、今日は、ほぼ65年ぶりに有楽町へ行きま

したと話しましたら、

”お幾つですか。まさか5才や6歳の時にお勤めしていたわけ

 はないでしょう?”

”86歳になりました。半ボケばあさんですよ。”

 と言いましたら、

”アラ、そんなに大きな荷物を持って、お一人で、有楽町へ

 行って、 囲碁を打って帰ってこられたなんてお元気ですね。

 お肌もつやつやしているし、おしゃれで、私は60半ばです

 から、70ぐらいかと思いました、きれいにしていれば、

 若々しく過ごせるんですね。 希望が出てきました。

 元気をいただけました。 丸の内は行かれましたか?”

 といわれたので、行ってないとお答えすると、八重洲側は

 三井グループが、丸の内側は三菱が再開発してすばらしく

 なっています。この次は是非、丸の内へ行って見てくだ

 さい”と言われたので、

 ”思わず奥様は大使館員のような方ですね。 観光客にも

 教えてあげたいです”と言ってしまいました。

 その後直ぐに電車を下りられたのですが、お名残惜しい

 出会いでした。



 思わぬところで、素敵な方と出会い、心が和みましたが、

 また、翌日、囲碁のマナーの悪い方々のことを思い出して、

 しまいました。



 今朝起きて、テレビを見ていて、外国の方々を見てはっと

 したのですが、囲碁ばかりに夢中になっていた自分に気が

 つきました。私が目指していたことは、世界の人と楽しく

 過ごせる未来を子や孫、曾孫に、残せるように例え微力で

 も、自分なりに努力することだと思っていたのですが、最近

 は囲碁ばかりに夢中になり、語学は録画するものになり始

 めていました。

 

今は自分の周りの友達が段々おかしくなっていき、辛いこと

が多くなりましたし、この年齢では何時、何かで人生が終わ

ってしまう事の方へ頭が行ってしまっていたのですが、其れ

でも生きている限り、遠くに目標を定めて努力していかなけ

ればいけないのではないかと反省しました。

私は6年生のこどもさんたちに戦争体験談をするときに、

最後に必ず付け加えることにしているのは、私達は世界の人々

と仲良くするために、心があれば言葉がわからなくっても通じ

合えることはありますが、少しでも言葉を勉強し、謙虚な気持

ちで仲良くしていってくださいと言うのです。 

私の亡くなった親友が何時も中国語なんて私達は漢字を知って

いるから、筆談で大丈夫通じるとよくいっていたのですが、

私はその危険さを知っています。

例えば、手紙と書けば、トイレットペーパーのことになり、

日本語の手紙は信になります。そのくらいはマアいいのですが、

”留守”と言う言葉は留まる所を守るわけですから、中国語

では絶対居ると言う意味なのです。

日本では反対ですから、謙虚な気持ちで確かめてお伺いすれば

いいのですが、さもないと喧嘩になりかねません。

私は今まで長い間、いろいろの言葉を勉強してきたのですが、

段々疎かになってきていました。

今の私の体力ではオリンピックまではとても生きられないと

思ってきましたけれど、今朝は考え直しました。

今までと違い言語の数を減らして勉強しなおそうと思っています。

90歳の私が、お役に立てる場面は難しいかもしれませんが、

それでも、挑戦することの方がずっといいではないかと思って

いますし、健康のことも私なりに研究してきましたので、駄目もと

精神で頑張りますわ!!!”


                   (大笑い?????)

至福のとき

2016-11-13 20:23:47 | 最近の出来事
昨日、今年二回目の元4歳児だった幼稚園児の

クラス会に招いていただき、おいしいイタリアン

のお料理をご馳走になり、優しい優しい人たちに

囲まれて本当に素敵な一日を、過ごさせて頂いた

のである。



今年の秋は天候も不順で、老人にとっては、あまり

過ごしやすいときではなかった上、いろいろと周囲

の友達が、体調を崩し、辛いことが重なってきてい

て、自分自身の心の健康をどう保ったらいいのかと

思って、毎日暮らしてきたのだが、今朝起きてみたら、

体が軽く、そのストレスが90%ぐらいはなくなって

いた。勿論、後の10%は私の年齢のせいである。



85歳と86歳では、たった一歳の違いではあるのだが、

この一年の違いは大きくて、どうも私だけではない

ような話も聞いている。



こんな私のために、みんなが実に優しすぎるくらいに気

を使ってくれているのだ。

先日も何時も出席してくれて居るだけでなく、事実上の

幹事さんのお一人だと私は思っているのだが、その方から、

クラス会の当日、運転の技能か何かのコンテストにご主人

が出場されるので、その応援に行かなければならないので、

クラス会に出られないと、わざわざお断りの電話をいただ

いていたのである。

いろいろと健康その他にも気を使ってくれていて、本当に

有難くて、心の中で手を合わせていたのですけれど・・・。


幹事さんは何時も前もって何度か電話してくれている。

奥様も本当に気持ちのいい方で、いろいろとご面倒をお掛

けしていても、ちゃんと対応してくれて有難い存在なのだ。

また、お母様にもお手つくりのとってもとっても可愛いと

言うか、日本の伝統の柄の縮緬を丁寧にはぎ合わせた美しい

お手玉の数々を送って頂いた。脳のためにお手玉をすること

が非常にいいというので、ベッドの頭の上に何時も飾らせ

て頂いて、ちょっと時間が出来た時に手にとって、まず、

その美しさに見とれ、幸せ感に浸り、それからお手玉3個と

か2個で練習する。

昔はそれ以上の数でも出来たのに、今は二個でさえも中々

長く続けられなくなってしまっているが、有難い贈り物だ

と感謝感謝なのである。

この前もチューブ入りの痛み止めのお薬をいただいて、夜

寝るときに足の親指の根元が腫れて赤くなって痛いので、つけ

て寝てみたら、翌朝赤みが取れて痛みがなくなっていて、びっ

くりした。昼間は痛いことがあっても我慢できるので、夜中に

就寝後一時間ぐらいの時に足の膝下がとても痛くなって目が覚

めたりするので、夜お風呂に入った後、大事に無駄にしない

ように摺りこんでいる。安心して寝られるのがとても有難いの

だ。



実はこの秋はみんなで三島へ来ないかと三島に住んでいるT子

さんからお誘いを受けていて、一泊どまりでどうかということ

だったが、ちょっと私は自信がないから、あなた達だけで行って

とお願いしたら、高校生時代ラグビーで新聞の紙面を飾っていた

藤沢に住むT君が車でお迎えに行くから大丈夫だと言ってくれて

いたのだが、まだ現役で月曜日にはお仕事なのに、そこまで迷惑

掛けられないから、あなた達だけでといったら、それでは、先生

の家の近くのセンター南にしようと、でも、静岡、埼玉、東京、

藤沢、茅ヶ崎と遠くから来てくれるのに、センター南では乗り換

えがもう一つ増えてしまうので、横浜まで、私は無料パスでいけ

るしと言うことで横浜に落ち着いたが、幹事さんと、三島の

T子さんが、高島屋さんまで出迎えてくれて、会場のレストランへ

連れて行ってくれた。勿論荷物を持ってくれたりゆっくり歩いてく

れたり、感激。T子さんは本当に気が付く人だけれど、子供の頃は

よく幼稚園をお休みしするので、運動会などのお遊戯を覚えられな

いのではないかと何時も私は気にしていたが、それが、何日休んで

も、出てきた時には、お遊戯が上手に出来るので、本当に天才では

ないかといつも思っていたくらい、不思議なお嬢さんだった。


前回、フラメンコをやっているという美人さんのお二人が二週間ぐ

らいの差で催しに出るということで、写真を専門に学んだTさんが

写真を撮るという話があって、幹事君と三島のT子さんと写真を撮る

つもりだった人と三人が行ってくれたそうだが、結局写真の撮影許可

は出なかったとか、デモとてもきれいだったそうで、その話で随分と

盛り上がっていた。私も行きたかったけれど、この年だと、急にどこ

か悪くなったりすることもありうるので、片方だけいけて、もう一方

へいけなくなったりすることもありうると思って、両方行かないこと

にしてしまったのだが、残念でならない。そういえば、幹事君はピア

ノを奥様に内緒で勉強していていつか驚かそうということだったらし

いが、今は凄い腕前になられて、演奏会に出ることもあるそうで、さ

ぞ優しい音を聞かせていることだろうと思っていて、私も一度聞かせ

てもらいたい思いに駆られている。



デパート関係のお勤めで、土日は出られないと、わざわざ会場に挨拶

のために出て来てくれた方もあり、親御さんの転勤その他で引越され

た方も数人、また、若くして亡くなられた方もお二人、そういえば、

親御さんの故郷茨城に戻られるとき、僕は料理が好きだから、いつか

帝国ホテルのシェフになると言う夢を語ってくれたT君はどうしている

かしら・・・・。



今つくづく思うのは、何時までも、こんな優しい人たちが心安らかに

暮らせる世の中であって欲しいということである。 

昔戦争の時には国の歳費の90%が戦費であったこともあり、もし、

これから、日本の軍事力を示して外国に脅威を持たせようというならば、

大事な将来をになう子供達のための保育や教育の費用はおろか、老人の

年金も出ないことになると思っている。

世界中の人々が、心から平和を願い、無益な殺生を行わないという強い

覚悟で望まなければ、地球自体の温暖化は進む一方であることを私は

心配しているのです。

私の人生(29)

2016-11-08 15:49:33 | 最近の出来事
小学校の5年生の12月8日太平洋戦争が始まりました。

気持ち良く晴れ上がった日でしたが、朝6時半頃、殆どの

家族が起きてきて、顔を洗ったり、髪をなでたりしている

と、ラジオが急に

”臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げ

 ます。”と連呼したのです。

 みんなの顔に緊張感が走りました。ただならぬ雰囲気を

感じたのです。

 ”大本営発表、帝国陸海軍は本八日未明 西太平洋上に

 おいて、米英両軍と戦闘状態に入れり。”と言うことを

 繰り返していました。

 ”いよいよ始まったか”と父が言いました。
 
 これからどうなっちゃうんだろうと、不安に駆られながら

 学校へ行き、校長先生のこれからいっそうしっかりやる

 ようにと言うご訓示をいただきました。

 

 三時間目の授業で算盤をぱちぱちやっているところに、

 小使いさんがノックして入ってきたのです。 担任の大塚

 先生が、小使いさんから手渡されたメモを片手に、黒板

 一杯に大きな字で、ハワイ真珠湾沖で日本軍が治めた戦果

  
 航空母艦  何隻  轟沈、 戦艦  何隻 撃沈

 巡洋艦   何隻、 潜水艦 何隻云々と書いていかれました。

 もうみんなですっかり舞い上がり、男の子達は算盤片手に

 机の上に上って、肩を組みながらはしゃいでいましたし、

 女の子達も 万歳万歳と、何回も叫びました。


 その日、学校から帰ると、父が竹薮の前に茣蓙を敷き、軍用行李

 を持ち出し、中から陸軍少尉の軍装を一つ一つ取り出して、虫干

 しをしていました。

 陸軍少尉の肩章の付いた軍服と、牛皮の立派な将校用の脚絆、水筒

 真っ白な手袋、サーベル、軍靴などなど。



 ちょっと来てくれと、父に呼ばれていってみると、

 ”お前も知ってのとおり、今日から戦争が始まった。私は予備役の

 将校だから、陛下のお召しがあれば、いつでも飛んでいかなけれ

 ばならない。その時はお前だけが頼りだ。お母さんは体が弱いし、

 おばあちゃんはもう年だ。長男のMは泣き虫で頼りにならない。

 昔、フランスのオルレアンにジャンヌ、ダルクと言う少女が居て、

 戦が始まった時に、剣をもって戦って、国を勝利に導いた。お前も

 千万人といえども吾行かんの精神をもっていざと言うときは戦えと

 言われたのです。5年生の小さな女の子にそういうことを言わなけ

 ればならなかった父の心境はいかばかりかとも思いますが、”千万人

 と言えども吾行かん”の言葉は、その後も、何度も何度も、私の胸に

 去来し、幾多の苦しい時をしのぐよすがになったのかとも思えるので

 すが・・・・?