ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

陸前高田4:2012年6月12日の記録

2017-12-14 14:38:55 | 東北被災地の歩み:岩手

未来商店街から、再び高田松原方面へと戻る道すがら、未来商店街から然程離れていない所にも、仮設の商店がある。

「木村屋菓子店」や、酒と和雑貨の「いわ井」、蕎麦の「やぶ屋」が並んでいる。


「いわ井」さんには、風呂敷や酒器などの雑貨の他、地域の製作者の作品や、地場の酒の「酔仙」が置いてある。 

その中に、吟味した岩手産の材料で造る「酔仙・オール岩手」があったのでひとつ求めた。


岩手の米、岩手の水、南部杜氏の伝統の技で造られた酒だ。

 

米の良さ、水の良さを活かし、コクはあるがまろやかで、香りと後味が爽やかな純米酒だった。


隣の「木村屋」さんには、 昔ながらの「がんずき」や「ゆべし」の他に、岩手の小麦と小岩井農場のバターを使った焼き菓子がある。


「夢の樹バウム」と名づけられたその菓子は、かつての高田松原と、今は一つだけ残った松の姿を思い描いて作ったものだという。



部屋の空気が一変するかのように、実に芳しいバターの香りが広がる。

表面に薄くかかった、飴になった砂糖蜜が、さくっと歯切れ良い音を立てる。中はしっとりと、程よい甘さと柔らかさだ。 

「夢の樹バウム」が描いた「一本松」は、塩で根を痛めながらも、懸命に生きている。

美しかった松原の浜辺から、爽やかに海風が通る穏やかな町も懐かしい。


あの一本松は、痛みも喜びも知っているだろう。

私らもおんなじ。

時々、ひとりぼっちになったように心細くなることもあるけれど、誰かとどこかで繋がっていて、一緒になって踏ん張っているのだ。


きっと「一本松」は、そんな私らを見守ってくれている。 



陸前高田3:2012年6月12日の記録

2017-12-14 14:34:30 | 東北被災地の歩み:岩手

県立高田病院前の大通りを、北西へさらに進む。

それは、かつて大船渡線の竹駒駅があった辺りにたどり着く道だ。
竹駒駅は、気仙川を遡った津波の被害を受けた。付近は、多くの町の破片で埋まったそうだ。


竹駒駅より手前になるが、スーパーマーケットの「マイヤ滝の里店」がある。

周辺には、仮設での銀行も設置されている。

マイヤの向かいに、「未来商店街」が見えた。

近くで、オオヨシキリの声が聞こえている。

小川が流れ、手作りの看板と橋が架けられた心地よい場所だった。

 

 

被災したが、地元で店を再開したい人の、その思いを汲んで作られた仮設商店だ。


ここに「ブロック808」という飲食店がある。

震災前は駅前の町の中で、市役所からも近い場所にあった。それはあの日、津波で消えた。

それから1年と2ヶ月あまり後に、「未来商店街」で再開したという。


その「ブロック808」で昼餉にする。

 

献立を見ると、野菜を上手に活用したものだった。

地元の野菜を多く使っているらしい。

若い女性が応対してくれたが、とても笑顔が素敵で、明るく気さくに接してくれたのも嬉しい。


出てきた料理も、おかずが豊富だった。

そのどれもが、一つ一つ味付けが違い、工夫がなされていたのが素晴らしい。

ここは、訪れる人が寛げるように仕立ててあるのだなと、作り手の思いが伝わってきた。


こうやって、被災地でつながりを大切にしている人々がいる。

被災しながらも、誰もが、ほっとできるひと時を得られるようにと、励む人がいる。

被災地の風景は切ない。

けれども、訪れる人を和ませて力づけている、そんな輝きもあるのだ.。


陸前高田2:2012年6月12日の記録

2017-12-14 14:19:05 | 東北被災地の歩み:岩手

かつて、広田湾に沿って人々が集まっていた町。

あの日から1年と3ヶ月を過ぎて、なおも片付けは続いている。

町の断片は積み重なり、かつての穏やかな町の風景は消えた。


それでも、生き残った人々は、今日を明日を生きるために、日々精進している。

点々と、使えそうな場所を探し出し、仮設の商店が出来た。

海辺から少し離れるように道を進むと、所々に店がある。


唐桑から陸前高田に入ると、気仙川に架かる気仙大橋を渡って、そのまま東に伸びる通りがある。

この道沿いに、道の駅や海と貝のミュージアムがあった。

震災前に寄ったことがある思い出の場所。

(2012‐6‐12:道の駅)


もう一つ、唐桑方面から気仙大橋を渡って、左手(西側)に曲がる通りがある。

こちらを進むと、県立高田病院がある。

近くに駅があったはずだが、建物が消えて、何がどこだったか分らなくなる。


県立高田病院近くから、陸前高田市の中心部だった所を見る。

町の断片が積みあがる向こうに、市役所が見えた。


その右手にとんがり屋根のふれあいセンターが見え、

さらに右へ目を移すごとに、中央公民館と体育館などの施設が、

そして青い屋根の高田高校が見える。



市役所と高田高校の間辺りにある、中央公民館の一画。
一番手前に見える白い建物は、高田ポンプ場。

これは、駅の南側が田んぼで、その脇を古川沼へと流れる「川原川」の傍にある。

雨水を汲み上げて排水する施設だが、被災して停止した。


その左に、塔の形の時計が見え、奥に白い大きな屋根が見えるのが、併設している中央公民館と体育館だ。

隣接して、図書館や博物館があり、一番奥の左側に見えるのが消防署。

ここは、一区画に施設がまとまっていた。


この残っている建物も、壊れて解体を待っている状態だ。
ここで犠牲になった方もいる。

中央公民館と体育館は避難所だったが、津波に襲われた。


宮城の津波被災地に、度々足を運んでいるが、1年3ヶ月を過ぎた陸前高田を目にした時、やはり口元がこわばり、切なくなった。



残された者には、失った命の尊さが身に染みる。
けれども忘れないで。生きる人の命も等しく尊いことを。



苦しくもあり、楽しさもある日々。
思いを引き継ぎ、無念に去った人を安堵させるように踏ん張る人々がいる。

今を生きる人を、励まそうと踏ん張る人もいる。


これからを生きる命の、その輝きも尊い。


陸前高田:2012年6月12日の記録

2017-12-03 22:13:25 | 東北被災地の歩み:岩手

気仙沼の唐桑から、広田湾に沿って北へ向かい、岩手の陸前高田に入った。

坂道の下に、海が見えてくる。

岩手県南の内陸部では、海水浴といえば、まず思い浮かぶのが陸前高田だった。


かつては、穏やかな青い海と白い砂浜の向こうに、色濃く連なる緑の帯が見えていたはずだが、その高田松原は消えている。 

 

 ただ一つだけ、あの日の辛さを一身に引き受け、海も町も見守るように、松がそっと立っていた。

 


町の片付けは続いていて、まだ、解体を待つ建物が多く残っている。

津波に砕けた町の断片を、重機で分別しながら積んでいて、まだまだ片付けに時間がかかりそうだ。


海から、なだらかに陸が続く所に、町があった。勢いづいた海は、一たび乗り上げてしまうと、強く重く流れ込み、町を壊してしまった。

海水浴場の近くに、「海と貝のミュージアム」もあったが、

美しかった洋館風の建物は、窓の硝子は割れ、中も壊れて入り口の看板門も無くなっている。


数年前に入ったことがある、思い出の博物館だった。

この「海と貝のミュージアム」は、それは見事な博物館だった。


陸前高田の海洋生物学者であった、鳥羽源蔵先生(1872~1946)と千葉蘭児先生(1909~1993)が採集した、貴重な貝や資料がたくさんあったのだ。

磯の風が窓から入り、静かで穏やかな空気の流れる部屋で、寛ぎながら学べる所だった。


収蔵されていた貴重な標本などは、どうなったか心配していたが、浸水して塩や泥で大変なことになっているものの、幸いにも大半が流出をまのがれたという。


早急に、全国の博物館や大学施設の協力によって、貴重な標本や資料が復元・保存されることとなった。

ありがたい。


復元は、気の遠くなるような繊細な作業である。

作業に当たられた人々の情熱によって、先人の研究成果が守られたのであった。