卯月十七日は曇り空の下、関山桜が盛りの所あり。
既に、ハナミズキやツツジも咲いている東京。
故にここも、上は桜に下はツツジと、色鮮やかな景色。
花の中にすっくと立つは、三権分立の塔。
「百尺竿頭一歩を進む」を語る。
卯月十七日は曇り空の下、関山桜が盛りの所あり。
既に、ハナミズキやツツジも咲いている東京。
故にここも、上は桜に下はツツジと、色鮮やかな景色。
花の中にすっくと立つは、三権分立の塔。
「百尺竿頭一歩を進む」を語る。
新しいお札の意匠が発表された。
一万円札が渋沢栄一ということで、昨年訪れた渋沢資料館の思い出を振り返る。
江戸の頃、狐火が見えると有名になった飛鳥山。(北区王子)
大正の頃、ここに渋沢栄一が邸を構えた。
今は渋沢史料館となり、戦災で焼け残った大正期建築の晩香廬と青淵文庫も見られる。
(↓晩香廬(ばんこうろ):2018年9月撮影)
渋沢栄一は、新たな工農商の実業を築き、民間外交にも尽力した人物。
晩香廬(ばんこうろ)は、賓客をもてなす洋風茶室である。
渋沢は、ここでも様々な人々と交流した。
渋沢が、様々な事業で関わった人々との写真が残っている。
その中に、懐かしい顔があった。
「新平さんではないか。」
奥州市水沢の偉人、後藤新平である。
水沢は、伊達政宗の従弟である留守宗利が入って以来、留守家の所領地。
新平は、幕末に留守家に仕え、明治に平民となって胆沢県庁の給仕となった。
そうした少年期だったが、人材発掘に長けた安場保和に見いだされる。
新平は、後に医師から政界にまで身を投じて活躍した。
仕事では挫折もしたが、志は挫けずに貫いた。
終生、公共公益と自治の精神を貫いた人であった。
(↓東京都復興記念館 2018年11月撮影)
この志は、渋沢栄一と共鳴するものであった。
渋沢は、慶喜に仕えた幕臣だが、慶喜の弟と共に留学して帰国後に明治政府の一員となる。
その後、経済界に身を置き、渋沢が志したのは「道徳経済合一」であった。
私益に走らず、公益につながる誠実な商いこそ、永続する事業となって私益にもなる。
後藤新平との出会いは、関東大震災後の救済と復興事業がきっかけであった。
後藤と渋沢は、官民の間柄で、協力して救済と復興事業にあたる。
人々の命を守り豊かな世へと、広い街路や公園を配し、安全と美観を備えた商業都市を目指したのであった。
渋沢は17歳年上で、後藤とは年は違えども、志に相通ずるものがあった。
二人の抱いた公益の志は、今こそ、我々が見直すべき世の在り方への道しるべではなかろうか。
さて、現在も渋沢旧邸内に残る、晩香廬と青淵文庫は、美しい建築物である。
(↓青淵(せいえん)文庫・外観:2018年9月撮影)
渋沢の祝い事の際、渋沢に寄贈されたもので、晩香廬は賓客のもてなし、青淵文庫は書庫として使われていたという。
(↓青淵文庫内部:2018年9月撮影)
何気なく訪ねたのだが、心に残る場所である。
渋沢の生きた時代を、現在の同地に立って、わずかに交錯するひと時であった。
※2018年9月掲載記事再編集
参考:北区王子 渋沢史料館/奥州市水沢 後藤新平記念館/
墨田区 東京都復興記念館/内閣府防災担当「帝都復興の展開」
文月十八日 大宮
鉄道博物館へ。
外は暑い。鉄博は、広くて涼しく、快適で楽しかった。
懐かしい車両に、昔を思い出す。国鉄だった頃の思い出。
線路傍の道路から、度々見かけた走りゆく重厚な列車。
昔の駅、硬券切符、駅員さんが切符を受け取る改札、車窓の風景等々。
昔に戻って、見送ったり、乗車したりした気分で、面白かった。
水無月
東京は、初夏からこれほど暑いのかと思った。
すでにへたばりそうで、真夏が思いやられる。
五日 旧古川庭園
美しいハナショウブが、まだ咲いていた。
同日 六義園
アジサイを鑑賞。ヤマアジサイが控えめながら凛として美しい。
ヤマアジサイ白鳥
くれない
七段花
六日 東京ドーム交流戦
イーグルスを熱く応援。
十四日 葛西臨海公園 臨海水族館
水族館の屋外展示で驚いた。
ここでタンチョウに会えるとは。
仲良しのクロツラヘラサギや、コウノトリもいた。
卯月三日
明治神宮外苑から新宿御苑へと渡り歩く。
神宮外苑では、聖徳記念絵画館に寄る。
大正15年に出来た建物で、花崗石の荘厳な印象の外観。
内部は大理石やモザイクタイルで美しい。
中には大壁画が並び、明治天皇の生涯を通して当時の歴史を描き伝えている。
その後、新宿御苑へ。
様々な種類の桜があり、面白い。
散り始めの、花びらの舞う花見となった。
咲き始めたツツジの紅と、桜の淡い紅の景色を楽しむ。
晴れて汗ばむような、とても暖かい日だった。