ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

あの日のまちかど 第27景 女川

2019-06-03 19:59:56 | ゆるゆる歩き:旧跡

十年前の今日、万石浦を眺めつつ、湾岸の道を通っていた。

万石浦の東側は針浜で、丘陵地の間に道がある。


この辺りの丘陵地は、あちこちが遺跡。

館崎館跡から少し南側で、紅い鳥居が見えた。


(2009年6月3日撮影:女川町針浜)


段の上で狛犬が左右に並び、中央に石像、奥に祠がある。

詳細が分からないのだが、針浜不動尊(はりのはまふどうそん)というらしい。


震災後には、変わっている。

鳥居や囲いなどが新しくなり、段が増えて位置が高くなった。

敷地は広くなったが、祠がなくなっている。


いつ誰が直したものか、調べても記録が見当たらない。


もともと、由来も不明な不動尊だった。

だが、古い石仏のようなので気になる。

言い伝えでもあれば、知りたいものだ。


あの日のまちかど第20景 石巻城址

2019-04-25 21:59:06 | ゆるゆる歩き:旧跡

震災の翌年、7年前の今日は、桜が津波の傷跡を和らげる高台にいた。

 

石巻駅から少し南へ進むと、急勾配の坂道が見えてくる。
その丘陵となっている所が「日和山」だ。

 

ここに、かつて葛西氏の「石巻城」があった。

(鎌倉の頃、その地を頼朝公から葛西氏が賜ったとされる。四代目の葛西清経が大規模な居城を構えたという。)

 

この日和山の一角に、眼下の川の方を指さして立つ先人がいる。

川村孫兵衛重吉だ。

 

(2012年4月25日撮影:石巻市)

 

 

日和山の頂には「鹿島神社」がある。

神社を含めた周辺が、かつての石巻城本丸だったらしい。

(葛西氏は鹿島神社を城の敷地内に造営したという。南西側に、さらに一段下がった部分があるが、そこが二の丸だったようだ。)

 

(2012年4月25日撮影)

 

参考:紫桃正隆『仙台領内古城・館』

 

 

その神社の段の下で、孫兵衛は桜に囲まれて立っていた。

 

 (2012年4月25日撮影)

 

川村は、毛利家臣であったが、関ヶ原で敗れ浪人となったのち、政宗公に拾われた。


政宗公は、藩の発展に欠かせない治水に着手。

そのための技術者が、川村孫兵衛重吉であった。

 

かつて、川の整備に尽力した孫兵衛と地元の人々。

孫兵衛は、働く人々に温かい心配りをしたという。

 

かくして、仙台藩は見事に新田開発や水運が発展。

先人の努力の成果は、今なお、美しく実り豊かな仙台平野に名残をとどめる。

 

 

さて、7年前のこの日、石巻も桜が咲き誇っていた。

眼下には、津波の漂流物が片づけられ、解体や整備の進められる町の姿。

 

 (2012年4月25日撮影)

 

先人は、苦労を共にして未来を切り開いた。

すっと指さして立つ姿は、目指す明るい未来へと、励まし導くかのようである。


 

参考:宮城県教育委員会『みやぎの先人集 未来への架け橋』

/農林水産省 宮城県農林水産部『治水の名手川村孫兵衛』



あの日のまちかど第19景 太白区郡山

2019-04-14 19:49:53 | ゆるゆる歩き:旧跡

8年前の今日、諏訪神社に立ち寄っていた。

震災から一か月を過ぎ、桜が咲き始めた頃だった。

 

当時住んでいた家は、郡山遺跡のすぐ傍で、近くに諏訪神社があった。

ゆえに正月や、どんと祭の時にお参りし、親しみのある場所。


ここの桜も咲いているかと寄ってみた。

すると、鳥居がない。


(2011年4月14日撮影:仙台市太白区郡山 諏訪神社)


震災で倒壊したらしく、そっと脇に置かれていた。


名石の稲井石、別名仙台石で作られた鳥居だった。

今は、新しく朱色の明神鳥居になっている。


さて、段を上ると、大きな桜が我らを迎えてくれた。

降りそそぐような枝垂れの桜が咲き始め、震災の傷を和らげる。

 

 (2011年4月14日撮影:仙台市太白区郡山 諏訪神社の桜)


桜巡り帳2頁目:乃木坂

2019-03-30 18:20:43 | ゆるゆる歩き:旧跡

萩藩毛利家下屋敷の跡を右手に見て、赤坂方面へと道を進む。

間もなく、道は高くなって下にも通りが見え、陸橋になっていると気付く。

すると目の前に、木立とレンガの建物が見える乃木公園があった。


入り口からすぐ、レンガのアーチの向こうに桜が見える。


アーチをくぐれば、脇にレンガの厩、奥に旧乃木邸があった。

 


乃木希典は、明治の軍人である。

だが、その生き方を見ると、乃木大将は侍というのが相応しく思う。

艱難と忍耐の人生であった。


軍旗を失い、子を失い、部下を失い、自責に耐えて人のために尽くす。

最期は、明治天皇の大喪儀で弔砲と梵鐘の鳴る中、妻と共に殉死した。


アーチから覗いた桜は、棗の隣にある。

旅順の壮絶な戦場の一角に、その棗の親木はあった。


旧乃木邸は窓から中が見え、写真や遺品、自害の部屋も見える。


ぐるりと回って庭に出ると、一角に瘞血之處があった。


庭から脇への出入り口を抜けると、乃木神社がある。


逆境の中で厳格に生きた乃木大将は、痛みを知るゆえに憐憫仁慈の人でもあった。

苦悩深き大将を支え、添い遂げた妻もまた仁慈の人である。


乃木大将と妻の情けを、世の人々が返す形となったのがこの神社だ。

今、乃木邸や社殿に寄り添う桜が咲いている。


参考:港区 旧乃木邸/乃木神社由緒・御祭神事績/国立古文書館アジア歴史資料センター



桜は、じっと耐えて時を待ち、伸びやかに微笑む様に思える。

そして、今を生きる人々と、喜びを共にする。




あの日のまちかど 第8景 仙台市泉区 古内志摩の墓

2019-01-29 15:02:16 | ゆるゆる歩き:旧跡

10年前の今日、偶然立ち寄ったのは先人の墓。

 

寛文事件で生き残った古内志摩。

 

 

懸命に回避した伊達家の危機。

表向きの記録とは別に、真相は隠されているかもしれない。

 


その実情を知りつつ、藩のために騒動の始末に尽力した古内氏。

どれ程心痛し、行く末を案じたろうか。

 

その先人の努力があって、今がある。

史跡は物語る。

我らに、よりよい生き方を考えよと。