ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

9年経った

2020-03-11 18:37:18 | 東北被災地の歩み:仙台

思い出して、何とも言えない気持ちになる日。

東北人は、負けでねよ。

泣いたり笑ったりして、踏ん張ってっちゃ。


  

震災の翌年は、壊れた建物が残っていた荒浜の道。

 

(左に荒浜小学校、手前右にガソリンスタンド。2012年3月21日撮影)

 

今は解体が済み、道路も新しくなって、景色が変わった。

 

(道路が高くなり、荒浜小学校が上だけ見える。ガソリンスタンドは無くなった。)

 

 

荒浜小学校は、震災遺構として当時の様子を展示し伝承。

 


小学校付近の海側にも、住宅の跡が残されている。

これも、保存し公開している震災遺構。

 

 

 

傍に慰霊碑が設けられた。


2013年4月3日の記録:仙台荒浜近辺

2018-06-11 18:15:39 | 東北被災地の歩み:仙台

若林区六郷から、さらに東の荒浜や井土方面へと進む。

仙台市の東は、農地として市街地調整されている。広大な田畑があり、堀が通り、合間に住宅地が点在していた。


そんな景色も、津波で大きく変わった。

多くの建物を失い、豊かで整っていた農地は荒れてしまう。


だが、震災からずっと、この地は再生へと手入れがなされてきた。

様々な人々が協力しあい、今も再生への努力は続いている。


散乱した物は片付けられ、水や塩分を排出し、水路を整備する工事が行われていた。




少しずつ取り戻していく農地。

震災後の生産再開には、加工も含めた新たな生産方法も考えられている。

 

復旧作業中の農地の奥には、所々で盛土が見える。


海側では堤防工事が進められている。

今後、盛土はもっと増えていき、県道の脇も変化する予定。

かさ上げ道路にして、二重堤防の役割を持たせるためだ。

 

海岸堤防と海外防災林の内陸側に、かさ上げ道路を設置して津波を弱める。

さらに内陸の市街地側には、避難ビルも設ける。

再生とともに、今後の災害への対策も同時進行している。


参考:仙台市震災復興計画/仙台市経済局「仙台市農業の復旧・復興の取り組みについて」


2012年12月12日の記録:キリンビール仙台工場

2018-04-01 15:22:55 | 東北被災地の歩み:仙台

あの日、津波が押し寄せた仙台港付近。


キリンビール仙台工場には、従業員の他、工場見学やレストランへの一般客もいた。

震災のおよそ2年前、津波避難ビル使用協定を市と締結していたことから、防災訓練も実施されていたため、避難誘導は円滑だったらしい。

その後、大津波警報の発令を受け、ビル屋上へと適切な避難がなされたという。


だが、異様な揺れと津波に襲われ、どれ程不安な一日だったろう。

幸いだったのは、平時に防災意識と備蓄などの準備がなされていたことだった。



工場は内外共に惨憺たる状況だったが、従業員や協力会社の尽力で工場内の片づけが行われた。

数カ月かけて内部の清掃と整備がなされ、外の倒壊したタンクを撤去。

9月、ついに生産再開を果たした。

11月には工場見学やレストランも再開。

翌年の12月に来訪した際には、レストラン内に震災時と再開への歩みが展示されていた。

この日、美味しいビールと焼き肉を大いに飲み食いし、工場の人々の努力に感心したものだった。

 

 

 


震災年の仙台市:6月13日の記録

2018-03-05 18:00:36 | 東北被災地の歩み:仙台

向山の広瀬川沿いの道を霊屋へと進む。

上ったり下ったりの坂道で、二股の道で右に折れると下り坂。

すると右手に広瀬川、左手には崖が見え、断層であることが目立つ所。

震災後、ここの景色が変わっていた。


久しぶりに通ったが、ぽっかりと空いていた場所に寂しさを覚える。

ここにはかつて、老舗の鹿落旅館があった。

興趣を添える内装や、冷泉を使った風呂が評判の旅館だった。


震災で、崖の岩が落ちてきて旅館は倒壊したという。

以前は当たり前にあったものが、震災後には消えていく。

何気なく通る街並みも、ある日、得難いものになるのだと、しみじみ思った。

 

 

*旅館の人々は無事、当時いた客も救出された。

 旅館は廃業したが、現在は跡地に、鹿落堂という蕎麦と甘味の店ができて、評判となっている。


震災の年の仙台市:4月14日諏訪神社

2018-02-16 18:40:16 | 東北被災地の歩み:仙台

長町駅の東側に、郡山という地区がある。

郡山遺跡と呼ばれる、古代の大和朝廷による官衙(かんが:役所)が置かれていた場所だ。

多賀城造営前は、ここが陸奥国の拠点だったという。


この南方に諏訪神社がある。

年の初めには初詣、正月と小正月の狭間にはどんと祭にとお参りした。

震災から1か月ちょっと、境内の桜が咲いているかもしれぬと訪ねてみた。


参道を前にして、あっと思った。

鳥居がない。


なんと、階段の脇に、折れた石の柱と笠木や貫が置かれていた。

震災で壊れてしまったのだ。

 

 

参道の階段を上った境内には、社殿の手前左に大きなカエルの石像、右側には桜の木々。

桜は、美しい微笑みをたたえていた。


町のあちこちに見える震災の傷。

その中で咲き始めた桜。

厳しい冬を越して咲いた桜が、人々を和やかにし、楽しませてくれる。