ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

閖上たこやき:2017年7月13日の記録

2017-10-16 19:35:09 | 東北被災地の歩み:名取・岩沼

穏やかな閖上の港町

そこで生まれた一風変わったたこやき

大きな団子みたいなたこやき

(本来はソースのみだが、この日は当世風にマヨネーズつき。

大粒を3つ串にさし、特製ソースの中に入れて絡めるのが特徴。

甘辛いソースと柔らかくも弾力のある食感、具材の味が調和し、一見素朴だが巧みな品。)

 


長らく作られてきたけれど

あの日波にもっていかれて

思い出だけが残った

 

波に消えてもう戻らないけれど

人々が慣れ親しんだ店

人々が好きだった味

 

だからみんなで思い出辿って

もう一度作り上げた

新しいけれど昔の味

 

閖上たこやきは、日和山(湊神社)向かい側にあった店で、橋浦きよさんが作っていた。

津波の犠牲になり、その味も途絶えた。

 

だが、人々の思い出のたこやきを、もう一度みんなで食べよう、閖上のことを様々な人々に知ってもらおうと、有志が閖上たこやきの再現へと動き出した。

 

きよさんの作った味を知る人々が、味の記憶を出し合って、あれこれ試しては作り直し、ようやくあの味に近づいた。

 

閖上たこやきの復活が素晴らしいのは、不安や悲しみの中で、みんなが力を出し合って何かを成し遂げたからである。

 

きっといつか、こうした経験が励みになったことに、様々な人が気づくだろう。

 


生まれ変わる被災地:閖上2017年7月13日の記録

2017-10-16 19:20:40 | 東北被災地の歩み:名取・岩沼

(2017年7月13日:県道129号線西から港方面へ・旧消防庁舎閖上出張所手前)

 

ようやくここまで進んだ、閖上の再生整備。

まだ、古墳のような盛土地帯も更地もあるのだが、

空き地だらけだった場所に、集合住宅や戸建てが見えるようになった。

 

(閖上港付近・河川堤防上から西方向)

 

 

道路も新しくなり、以前は無かった坂道が出来ている。

これは、その坂の高さの分だけ嵩上げされたということ。

(港方面から西へ・旧消防庁舎閖上出張所の前)
 

 

ただし、女川や南三陸町と違って、商店の整備は遅い。

 

港周辺には、生産加工場や朝市協同組合の販売所などは既に出来ている。

(閖上港周辺)

 

だが、商店を営む人々は、未だに仮設の「さいかい市場」のまま。

 

商工会と協同組合と、同じ閖上でも組織が違うことが、足並みに影響しているようだ。

 

 

 

津波を目の当たりにして、命からがら逃げた住民の心中には、複雑な思いもあるが、現地再建という形で再生整備は進められてきた。

 

 

今までも、これからも、ずっと閖上で暮らす人たちは、相手を慮って言葉を飲み込み、成り行きを見守っている。

 

本当は、言葉を拾い上げながら、うまく仲立ちをしつつ進められるといいのだが。

 

 

それでも、いつも我々を明るく迎え入れてくれる「閖上さいかい市場」の人々。

「みんな、頑張ってくれているんだけれどね。」と、不安や焦りを引っ込めて、笑顔で温かな言葉を交わす。

 

 

まだ続く辛抱の日々。

だが、笑顔でたゆまず日々努め、生まれ変わりつつある町を見つめている。

(2017年7月13日:慰霊碑と芽生えの塔付近)


見回りの 猫も見守る 閖上港:2014年3月18日の記録

2017-10-16 10:14:22 | 東北被災地の歩み:名取・岩沼

港から、ゆうゆうと道を横切る猫一匹。(2014年3月)

まず、今日も何ともねぇよだな。
どれ、何かもらってくっかな。

 

猫の見つめる先は日和山。

海を見守るため、大正期に作られたという築山だ。

今は慰霊の場所でもある。

(2014年3月↓)

 

かつては、市場、工場、店、住宅が立ち並んでいた。
平坦で穏やかな港町。

(2008年4月:商店街↓)


(2010年1月:かつての漁港周辺・マルヤ水産の辺り↓)


(2008年4月:かつての閖上漁港と魚市場↓)


震災から3年、津波の後の更地だらけ。(2014年3月↓)



だけど、しぶとく生きる輝きだってある。
岸壁をなおす工事の傍ら、漁港には船が増えた。


寂しい空気と、力強い空気が入り混じる。


そこから始めた相馬屋4代目:2012年11月12日の記録

2017-10-16 09:50:30 | 東北被災地の歩み:名取・岩沼

気さくに話してくれた明るい声、量り売りの黒飴を勧めてくれたり、閖上の赤貝丼のことや菅野蒲鉾さんのことを教えてくれたりしたことを、今も鮮やかに思い出す。


この店の主からは、ふるさとの良さを引き継いでいこうという温かな思い、閖上を大切に思う気持ちが伝わってきた。


創業明治39年という「相馬屋菓子店」さんだ。

主は高野さん。4代目だという。

入り口の近くに、懐かしい量り売りの飴があった。

木枠にガラスがはめ込まれた蓋から、仕切りの中にまるっこい飴が、はしゃいだ子どもみたいに並んでいるのが見える。


手作りの黒飴は、黒蜜の旨味が見事に引き出された飴。

強く前に出るのではなく、穏やかに広がる甘さでコクがあった。

(↓2008年撮影)



飴やがんずきなど、昔ながらの菓子の他に、カステラなどの西洋焼き菓子も作られ、店の正面の硝子囲いの棚に並べてあった。右手には和菓子が並んだ硝子囲いの棚。

懐かしい。

(2008年4月撮影↓)

 


かつて閖上には、家々や商店がたくさん並び、閖上港から揚がる海の幸を加工して店先に並べる光景も見られた。

大津波で、その町は消えた。1年と八ヶ月前のことだ。


震災から1ヵ月後に、閖上に寄った。

町の破片が散らばり、道の脇に漁船が転がり、自衛隊が重機で片付けたり、警察も出て行方不明者の捜索に尽力したりするのが目に入る。


知人の家には大きな穴が開いていたし、もう何処を通っているのか分らないほど家も店も壊れていた。


かつて寄った相馬屋菓子店さんは、どうなったかと心配だった。

ずっと気がかりだったが、ようやく最近になって近況を知ったのである。

苦境の中で、踏ん張っていた。

 

 

閖上で、震災の語り部をしているという記事だった。

写真の姿は少し痩せたように見えるが、再びその姿が見られたのは嬉しかった。


ふるさとを思い、人々に温かな思いを伝えるのは、震災前に出会った頃と同じだ。

閖上を大切に思い、引き継いでいく温かな心。

今も、多くの人々に伝わっている。


そうか、高野さんはそこから始めたのか。

次はもう一度、菓子店が開けることを願っている。

また、あの黒飴や、より風味の良かったビーテラが食べたいものだ。


(相馬屋さんの品:2008年)