12/12 木曜日 ・・・素晴らしい青空の下東京から発信です。
・・・グット・タイミング!! 14日は・・・おのおのがた、討ち入りでござる。
土曜日に・・・案内だ!! 引き出しが・・またまた!! できた。
書状は元禄15年12月14日(1703年1月)の討ち入り翌日の日付。関東で造り酒屋を営んでいた鈴木忠右衛門が日野町の本宅あてに出したとみられる。
「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士四十七人の討ち入り直後、江戸市中で飛び交った情報を集め記したとみられる、近江・日野商人の書状が見つかった。滋賀県日野町の町立近江日野商人館が発表した。江戸の庶民が早々と浪士側に味方していた様子もうかがえるという。
満田良順館長(67)の訳によると、書状は「昨日、吉良上野介(きらこうずけのすけ)殿邸へ夜討ちがあった。
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)殿の浪人は150人ほど。今春に奉公人になりすました者が4人、中間(ちゅうげん)、鑓(やり)持ち、若党などにもなりすましていた。
午前2時ごろ、浪人は太鼓などを打ち鳴らし、火事だと触れるなどして邸内の者が門を開けたところ乱入した。上野介殿らの首を持たせて品川の内匠頭の墓所へ行った。
吉良邸の門の外にまで切り散らされた者がいるという」と記し、末尾は「いさ記(ぎ)能(よ)キとの評判ニて候 善悪 しかとそんし申さす候」(いさぎよいとの評判だが、私には善悪の判断がつかない)と感想を述べていた。
・・・素晴らしい見聞に感謝だ!!