04/11 &
水曜日 ....
ハーフハーフになってきたような?? ガスがかかっているような??...江戸東京 空の下から発信です。
黒門町!! 噺家と言えば!!
自宅住所の住居表示実施以前の旧町名から、「黒門町(くろもんちょう)」「黒門町の師匠」と呼ばれた。 落語における戦後の名人のひとりといわれ、2歳年上の5代目古今亭志ん生と併び称された。
8代目桂 文楽(かつら ぶんらく、1892年(明治25年)11月3日 - 1971年(昭和46年)12 月12日)は、東京の落語家。 本名、並河 益義(なみかわ ますよし)。
自宅住所の住居表示実施以前の旧町名から、「黒門町(くろもんちょう)」「黒門町の師匠」
そんな...黒門町で!! 昨日...04/10 pm 16:30 帳前の至福の黒門町 で ひとっ風呂 ・・・・!!!
ちなみに
役者やはなし家を地名で呼ぶのは江戸以来の習わしだ。八代目林家正蔵(彦六)を「稲荷町」 、五代目柳家小さんを「目白」、三代目古今亭志ん朝を「矢来町」と呼んだのは、そう遠い昔の話ではない。 今輔はなぜ「黒門町」と呼ばれなかったのか。文楽にお株を奪われてしまったのだろうか。
ちなみに パート2
五代目柳家小さんを...師匠に持ったのは、6代目立川談志/家元である。
ちなみに パート3 黒門町の親分と言えば。
江戸は黒門町の伝七親分(梅之助)は、町の人たちの強い味方として慕われている。弱いものいじめと見れば、たとえ相手がりっぱなお武家でも体当たり。刀を抜かれても、「静かにしろい! そんななまくら刀でこの伝七を斬ることはできねえぜ」と、啖呵一発。 伝七は、特別に許された紫の房の十手と、万力鎖がトレードマーク。
そんな...黒門町で!! 昨日...04/10 pm 16:30 帳前の至福の黒門町 で ひとっ風呂 ・・・・!!!
わ いてます!!
帳前!! 至福は・・吾輩含め・・客人は5人!!
ロッカーは!! 5 - ゴケ....下足札は 7 - シチケン(またはナキ) 人生おいちょかぶである。
富士山の溶岩!! モノホンである。 今は手に入れられない。 何故?? 国立公園に指定されているためである。
台東区・・燕湯!! 禁止です。 それを・・撮るのが...プロである。
開業時期は不明だが、太平洋戦争中の昭和20年(1945年)に空襲で建物が焼失したため、昭和25年(1950年)に現在の建物が再建されている。先代の店主は新潟県の燕三条地方出身だったため「燕湯」という屋号になったといい、昭和29年(1954年)に現店主の曽祖父(先代とは別の家系)が三番目の代を継いだ際に屋号も引き継いでいる。
2008年(平成20年)に前述の曽祖父の代から数えて四代目が引き継ぐと、同年には建造物並びに浴室の岩山が「再現することが容易でないもの」として、東京都の銭湯では唯一となる国の登録有形文化財に登録されている。ペンキ絵(以前は富士山が描かれていたが、2012年5月より富山県の立山に変更となった/共に中島盛夫作)の横にある岩山は実際に富士山の溶岩で造られており、現在では富士山が国立公園となって溶岩などの岩石を持ち出すことは当然できないため、大変貴重なものである。
なお、当銭湯では文化財の登録以降に湯を沸かす燃料をガスに変更し煤煙が出なくなったため、煙突については文化財の関連機関と連絡を取った上で助言に従い、痕跡を残しつつ取り壊している
至福過ぎた・・・!! 黒門町は・・いいところである。遠出をしなくとも・・・灯台下暗し・・・江戸は歴史の宝庫である。
当然・・自分ご褒美は・・・味の笛 徒歩5分。
客人は・・まだまだ・・・止まり木に止まっていたのは、それでも8人はいたようだ!!「ヨヨヨイヨヨヨイヨヨヨイヨイ、あ、めでていな」
二本指締めでおなじみ、黒門 町の伝七親分は、特別に十手の紫房を許された捕物名人。