家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

「幸福力」と家

2006年05月19日 | 家について思ったことなど
最近、幸せに生きるために能力が必要だなあと思うようになっている。
この能力とは、人より頭がいいとか、運動神経があるとか、お金を稼げるとか、そういう才能のことではない。
それは小さなことに感謝できる・喜ぶことができるという能力である。「幸福力」とでもいえよう。
この能力があれば、人はだいたい幸せに暮らすことができるのではないだろうか。

私は、夕涼みとか、ひなたぼっことかで結構幸せな気分になれるのだが、最近はそういうことでは喜べない人が増えているようだ。
そんなことを考えているせいか、超高性能住宅でないと快適に暮らせないとばかりの言動をする人を見ていると、違和感を覚える。
その主張は高級車に乗らないと快適に走れないと言っているのと同じではないのか? 一流の料理人の料理でないとおいしくないと言っているのと同じではないのか?
比較をすれば、高級車の方がおおむね快適であろうし、一流料理人の料理の方がおいしいであろう。しかし、高級車でなければ、一流料理人の料理でなければ後悔するほど気分が悪くなるのだろうか。
私は、大衆車の性能でも、単にまじめな普通の料理人の料理でも喜べる自信がある。そうであることは誇りでもある。

自分には家づくりにコダワリがあったので、それが実現できた部分はとてもうれしいとは思うが、実現できなかったことがあるからといって不幸であるとまでは思わない。
家を建てたこと自体、とても喜ばしいことであり、自分は果報者である。
「ああしておけば、こうしておけば」ということも決してないわけではない。どこから見ても、誰から見ても文句のない家とも思っていない。人の家より劣っている部分だってあるだろうが、それでも家が出来たという大きなくくりで満足できる。
他と比べてどうだということを気にしすぎるときりがないし、幸せにもなれない。

住宅本に多い「こうしないと後悔する」というような指南は「幸福力」を阻害すると思っている。どうせなら「こうするともっといい」って指南すればいいのに、と思う。
後悔したり、不幸だと思ったりするのは欠陥住宅になってしまったときだけだろう。「最高の環境(※)でないと後悔する」人は幸福力に乏しいと私は思っているのだ。
実は性能面で大きく劣っていた旧宅時代ですら、耐震性への不安以外は別に不幸な暮らしだとは思っていなかった。そのときにいろいろな住宅本を読んでは、性能が低いらしい我が家での暮らしが不幸なことのように書かれているのをみて「大きなお世話」と思ったのだった。
新居は超高性能でもないだろうが、それでも旧宅よりははるかに性能がいい。旧宅ですら暮らしにまずまず満足していたわけで、新居の性能にケチをつけたらバチが当たる。

幸福力を強めるには、特別な才能はいらない。考え方をちょっとずつ変えていけば誰でもその力を身につけることができるだろう。
ちょっと前のNHKの連ドラ「わかば」で南田洋子さん扮するおばあが「生きちょるだけでまるもうけ」と口癖のように言っていた。私はそこまでの達観には至っていないが、「家ができただけでまるもうけ」くらいは思っているのだ。



※そもそも「最高の環境」自体、その有り様には個人差があるだろう。