魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

主体の自由とは

2006-04-05 14:57:04 | Weblog

問題は「平均的意識」に対して「突出した意識」がなぜ生まれるのか?彼はこの疑問に答えていないようです。彼だけではなく、すべての西洋思想はこのこと、魂の優劣に疑問さえ提出していないようです。
おそらく彼ら西洋精神にとって個々の魂の優劣差異は神のさじ加減、自然の摂理、運命的なものなのでしょう。あるいは単に個人の努力に帰しているのかも知れませんが、努力する精神的能力の差異はどこから来るのでしょう。天賦の才なら運命と同じ事ではないでしょうか。しかし彼らはそこに魂の主体的自由、選択の自由を見るというかも知れません。あらゆる人間的行為に対して、彼らは自由な魂の選択としての自己責任を見るのでしょう。神がそのように魂の自由を与えたのだということでしょう。もしそうだとすれば、人が悪を選らんだならその責任で罰を受けるのは当然です。また極端な場合、そのDNAは排除される必要があると考えるでしょう。生命の進化が自然淘汰、適者生存であるという考え方に通じています。  こういう考え方は西洋化した今日の日本人にも一般的でしょう。とはいえ、もちろんキリスト教の中には選択の過ちを犯したものにも神の救いの手を伸ばすという考え方もあるようでしょうが、ごく少数派のようです。   
現代は生まれつきとしか言いようのない人格障害をよく目にするとき、上述のような主体的自由で人間の生き様を批判することはもはやできないのす。実存の自由の原動力として魂の自由はありますが、それは運命の歯車を回す力でもあるというべきでしょう。つまり人間の一生は運命に他なりませんが、自分自身であろうとする欲望の葛藤が運命を作っているのではないでしょうか。
いるのではないでしょうか。
ウイルバーの場合、その心理学はカウンセリングの現場にある人々を対象としているという限界があるようです。人間的現実の多様性を意味づけようという意志は古来の精神的伝統に則ったもので、それ以上ではないようです。つまり、修行などにより精神的高みに達するという精神主義です。
現代が発見したのは精神にも生まれつきの差異があるということの重要性です。そして運命はひとえに人間の精神に責任を負わせるにはあまりに過酷な場合が少なくないということです。昔の仏教はそれを過去生の罪業に帰していました。しかし、元々の最初の魂に何の罪業もないではないでしょうか。彼はなぜ過ちを犯したのでしょうか。無知からだとして、その無知は彼の罪でしょうか。つまり、生まれ落ちたとき魂はすべて無知無明なのです。それは罪ではありません。それはそのようにしてあるのです。――このことについてはゲンコウノート・魂論にもう少し追求してあります。

ちょっと脇道にそれますが、無明を解き放つにはが必要です。知識の知ではありません。知識、は現実を概念化し、概念の間の論理的つながりを構築しただけですから、素直にそれを信頼し覚えれば、分かった気になれる、割り切れた気になる、それだけのことです。目の前にあるものをパソコンといわれてパソコンかと納得してしまえるということです。しかし、心は運命に破壊されたとき不気味な、割り切ることのできない奇妙な様相を呈します。パソコンって何なのだ<コンピューターとは<電子回路とは?<電子とは<原子とは?<素粒子とは?<根源物質とは<量子とは?<確率とは?<実在は認識できないとは?と概念的知識は、最後には答えのない世界に行き着くしかないのです。

さて、話を元に戻しますと、人間の運命の差異を罪悪に持って行くことの不当性を語りましたが、それでは何が運命の差異をもたらすのかといえば、実在を生命的原理とみることによって疑問を解決できると考えます。自然科学には物理学と生物学がありますが、生命科学ということに注目したいと思います。


自我についての考察

2006-04-05 14:04:16 | Weblog
さて、問題は現代まで続く「心理的自我の段階」あるいは「自我段階」です。自我とは何であるか、それをどのように考えるかによって人類の未来の展望は大きく違ってくるでしょう。
ウイルバーはギリシャから始まる西洋的理性や論理的精神・主観を自我と見ているようですが、それは自我の西洋的環境でのあり方ではないかと疑う必要があるのではないでしょうか。釈迦や、老子、孔子にとっても自我が本質的な問題だったはずです。ただ、人間の自我(私・エゴ)を肯定的に尊厳性としてとらえるか否定的に劣性としてとらえるかの違いではないでしょうか。東洋の精神は論理的理性を否定する方向に向かったと考えた方がいいのではないでしょうか。
自我と理性を同一視、あるいは自我に理性を付属させて肯定的であった西洋にとっても、実はこの「自我」(自我 - Wikipedia参照のこと)なるものを何ととらえるかは人・立場によって様々で、現代では非常に難しいことのようです。
自我に否定的な東洋でも唐代、華厳哲学の頃にも自我の理性的な働きについて考えることがあったようですが、あくまで自我に否定的で、天の法・理や気(理気説)に属するものととらえているようです。
このように東西の自我のあり方の違いは自我の方向性と考えることができると考えます。神話的段階の「突出した意識」、唯一の絶対的存在は「神」だけではなく「天」や「仏法」、あるいは「混沌」ということも考えるべきではないかと思います。それ故にウイルバーのいう「各時代のなかでももっとも進化し、その時代から突出した意識」のあり方、考え方は、この頃からから大きく分離多様化していったと見るべきではないでしょうか。特に東西では大きく違った見方をする必要があると思います。