家周りのメンテナンス、ホームページのメンテナンスに追われて一日中一度も人との会話のない日々を送っている。口の体操のために音声入力「ドラゴンスピーチ」を購入した。試してみると発音能力の劣化のひどさがわかった。このままでは痴呆化する危険があるので大いにこのソフトを使おうと思う。この書き込みもドラゴンスピーチで入力した。修正などはまだなか慣れないのでマウス、キーボードを併用している。
高校3年の時に新聞を配達を止めた。高校3年生での思い出としては野山を歩き回っていた印象が強い。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」 、ロマン・ロランの 「ジャンクリストフ」なども読んだ。ニーチェの「人間的な人間的なあまりにも人間的な」を読んだのも高校3年生からその頃だろうと思う。とにかくいろいろな本を読んだような記憶がある。多くの詩歌を作ったのもこのころからだろう。
放浪には扁桃腺の熱に浮かれていたという面もあったと思う。冬になって40度の熱がたびたび出て、卒業間際になって手術のために入院した。入院日数は覚えていないが1ヶ月ほどかかっただろうか。指先ほどの扁桃腺を2つ切った。両方とも青い膿に覆われていた。長い間の我慢の結果だろう。呼吸器系統の欠陥は小学校時代のタイル工場での粉塵の影響が強いと思っている。それが新聞配達で悪化したのだと思う。退院した後しばらくぶらぶらしていたように思う。そして近くにあった鍛造工場で働いた。年金記録によると8月から7ヶ月勤めたようだ。病み上がりの体というより、バリ取りに出る粉塵が鼻や喉、気管支に良くなかった。
退院後の体調はよくなかった。ちょっとした気候の変化でも頭がぼーっとなって何も考えられなくなった。体調のいい時は咲いていた頭もその時は停止してしまった。この状態は以後何十年も続いて僕を苦しめた。
その頃60年安保闘争が始まっていた。この町でも高校の先輩たち、その頃東大などの大学4年生たちが主体となった平和を守る会というサークルが活動していた。何がきっかけだか覚えていないが僕もそれに参加するようになった。リーダー格には年長者で、T自動車の下請け会社の社長の2号の息子がいて、その自家用車だっただろうか、初めて車というものに乗せてもらった。