魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

高校生活の終わり

2014-04-08 11:30:57 | Weblog

 家周りのメンテナンス、ホームページのメンテナンスに追われて一日中一度も人との会話のない日々を送っている。口の体操のために音声入力「ドラゴンスピーチ」を購入した。試してみると発音能力の劣化のひどさがわかった。このままでは痴呆化する危険があるので大いにこのソフトを使おうと思う。この書き込みもドラゴンスピーチで入力した。修正などはまだなか慣れないのでマウス、キーボードを併用している。

 高校3年の時に新聞を配達を止めた。高校3年生での思い出としては野山を歩き回っていた印象が強い。ヘルマン・ヘッセの「車輪の下」 、ロマン・ロランの 「ジャンクリストフ」なども読んだ。ニーチェの「人間的な人間的なあまりにも人間的な」を読んだのも高校3年生からその頃だろうと思う。とにかくいろいろな本を読んだような記憶がある。多くの詩歌を作ったのもこのころからだろう。
 放浪には扁桃腺の熱に浮かれていたという面もあったと思う。冬になって40度の熱がたびたび出て、卒業間際になって手術のために入院した。入院日数は覚えていないが1ヶ月ほどかかっただろうか。指先ほどの扁桃腺を2つ切った。両方とも青い膿に覆われていた。長い間の我慢の結果だろう。呼吸器系統の欠陥は小学校時代のタイル工場での粉塵の影響が強いと思っている。それが新聞配達で悪化したのだと思う。退院した後しばらくぶらぶらしていたように思う。そして近くにあった鍛造工場で働いた。年金記録によると8月から7ヶ月勤めたようだ。病み上がりの体というより、バリ取りに出る粉塵が鼻や喉、気管支に良くなかった。

 退院後の体調はよくなかった。ちょっとした気候の変化でも頭がぼーっとなって何も考えられなくなった。体調のいい時は咲いていた頭もその時は停止してしまった。この状態は以後何十年も続いて僕を苦しめた。

 その頃60年安保闘争が始まっていた。この町でも高校の先輩たち、その頃東大などの大学4年生たちが主体となった平和を守る会というサークルが活動していた。何がきっかけだか覚えていないが僕もそれに参加するようになった。リーダー格には年長者で、T自動車の下請け会社の社長の2号の息子がいて、その自家用車だっただろうか、初めて車というものに乗せてもらった。


高校時代

2014-04-08 09:56:30 | Weblog

 今年になって同級生夫婦を訪ねていない。家周りのメンテナンスとブログ、ホームページの書き込みで忙しいからであるが、彼らが忙しくなったからでもある。長男の奥さんが急死して、孫の面倒を見なければならなくなったのである。お孫さんは自閉症だから目が離せないようだ。のんびりお茶を飲んでいる余裕はなさそうだ。知的障害者とつきあうのは難しいことなのだ。自閉症とのつきあいは受容が大切なのだが、それにはその気持ちを理解しなければならない。それができるようになるには10年の苦闘が要するだろう。70過ぎの彼らには無理なことだ。慰めに行ってやりたいが・・・

 新聞配達をしながら高校に通った。大配りといって、朝の3時、4時に起きて町の新聞屋まで新聞を受け取りに行き、5人ほどの小配りに持って行った。その後自分の集落を配った。自転車で行くのだが、その頃はどこにも舗装道路はなかったので風の日などは砂塵が舞い難儀だった。雨風の時は悲惨だった。風にあおられて倒れ、新聞を風にさらわれたこともある。気管支炎で扁桃腺、蓄膿の身にはきつい毎日だった。学校帰りには新聞屋によって夕刊を受け取って配った。だからクラブ活動はしなかったので、学校生活を楽しんだ思い出はない。
 どんな勉強の仕方だったか覚えていない。東大病にかかっていたのはよく覚えている。新渡戸稲造などの伝記の影響かもしれない。反面文学に熱中していたので受験勉強などしたことがなかった。勉強とは読書のことだったと言っていいだろう。教科書を何度も音読した。参考書を読むのも好きだったように思う。藤村や啄木、宮沢賢治の影響を受け、あるいは芭蕉や西行、万葉集などの影響を受け俳句や和歌や詩を作り始めたのは2年生頃だろう。哲学にも興味を持った。イデア論や唯物論は三年に入った頃からではなかったかと思う。 学業そっちのけで、授業中も机の下に置いて読んでいたように思うリーダースダイジェストも愛読していたのではなかったか。
 3年生の頃は何かにとりつかれたように詩作を練るなどしてそこら中をうろついていたようだ。夏でも黒いマントを羽織ったりして頭がおかしくなったと噂されもしたようである。実は悪化した扁桃腺の熱に浮かれていたのでもある。そしてついに40度の熱に倒れた。