魂の発達

私とは何か。私とは魂であるというところから世界を考えます。

60年安保時代

2014-04-21 11:28:35 | Weblog


 四国のお遍路で朝鮮人批判のビラが貼られたという。サッカーのJリーグでも排他的言動が目立つという。安倍晋三の国家主義は偏狭な国粋主義者の台頭を促すことになるだろう。それも歴史の必然、日本人の運命なのだろう。

高校3年生の時伊勢湾台風があり、1時住んでいた倉庫が倒れた。いま思い出したが、あの倉庫時代、ブリキで出来たおもちゃの笛(含み笛とでもいうのだろうか、現代では見かけない)を喉に詰まらせて死にかけたのだった。倉庫と井戸の間の通路に立って、自己主張でもするかのように、生家や病室の明るい灯に向けて吹いていたのだった。
 創価学会等を関わり持ったのも3年生の時だった。母の陰気な南無阿弥陀仏が嫌で意気のいい南無妙法蓮華経の創価学会に母を入信させたのだった。僕自身としては神も仏も信じていなかった。

 安保闘争に関わりを持ったのは隣の集落の京大生の訪問からだったのではないだろうか。平和を守る会の後身である市政研究会のサイトによると、大学生4年生だった先輩たちが夏休みに小学校や図書館などで青年会や婦人会と安保条約についての集会を持ったとある。その時のことであろうか。
 安保に対する僕の考えは、ヒューマニスティックなイギリス新左翼の影響を方を受けたらしい彼らとは違っていた。僕はヒューマニストではなく、「人間的な、あまりにも人間的な」のニーチェに共感する部分が多い人間であった。実存主義者の先駆者とみなされるニーチェは人間を意志的存在と見なし、主体的自己超越性を実現したものを超人と呼んだ。僕は主体的自由意志という観点から、自分の国は自分で守るべきだと思っていたのではなかったかと思う。それが愛国者的言動として現れ、彼らには右翼とも呼ばれたりした。浅沼稲二郎を殺害した山口少年に似ていると東大生Sに言われたような記憶がある。確かに日本史が好きで愛国者的なところはあったように思う。愛国的といっても日清日露戦争以前の日本が好きなのであって、満州事変以後の帝国主義は嫌いであった。
 Sには自堕落だという批判も受けた。幼少期から醜い大人たち、社会を見てきた僕には彼らのようなロマンティシズムはなく、ニヒリズムが根底にあったといっていいであろう。ニヒリズムの克服を目指したニーチェに通じるところである。

 この運動が縁で右翼的なのに共産主義的な彼らと臆面もなく遊びにもつきあった。面白ければ何でも良かったのかもしれない。同人誌に詩を書いた覚えがある。その詩稿は残っていないが出だしは覚えている。「ほむらはひとほ やみなかむろに ほのほのゆれて なにおかかたる かたるもかなし むかしのことか」からはじまる、ひらがなで物語風の詩だった。
 酒を初めて飲んだのもその頃だろう。がぶ飲みして、夜中に吐き、二日酔いになった。しかし酒を飲んでいる時は喉の痛みも頭の重さも消え、吐いた後も頭が冴えるような気がしたのではなかったか。手のひらの皮向けもそのときはなかった。それ以後飲食は僕の生きがいになった。

 昭和36年、 1961年にNとともに奨学金を受け岐阜大学に入学した。奨学金というものの存在を知ったのはその時初めてだった。僕の小学校時代からの同級生で、優等生だったAは高校時代から奨学金をもらっていたらしい。父親が役人だったから知っていたのだ。世間と敵対していた我が家ではそういった情報は伝わってこなかった。
 Nは芸者の子で東大生Sと同じ町の花街育ちだった。Sと小学校時代から成績を争っていたというが、貧乏なので中学卒業後は働きながら夜間に通っていたようだ。Sの父親は薬局を開いていて、共産党員だった。ちなみに4人の大学生の1人が岐阜大農学部であった。家業は米穀販売業で、その家の二階には坂口安吾など戦後の文学書などもあって、よく遊びに行ったものだ。大学生TはT自動車従業員の息子で、その頃愛知大学在を中退して地方新聞社に就職したようだ。もう1人の大学生Nは元藩主の家柄で名大生ではなかったかと思う。彼の顔はあまり見なかった。

高校時代は思春期であり、哲学や思想に強い興味を持つ、孔子が言った「学に志した」時代だったと言えるだろう。 また人との違いを強く意識した時代であった。小中学校では背の高いほうであったが、4月生まれの僕は他の同級生に比べて早く成長が止まり、背丈にコンプレックスを持つようになった。自分はもっと背が高いはずだという思いが終生付きまとうようになった。