さて、問題は現代まで続く「心理的自我の段階」あるいは「自我段階」です。自我とは何であるか、それをどのように考えるかによって人類の未来の展望は大きく違ってくるでしょう。
ウイルバーはギリシャから始まる西洋的理性や論理的精神・主観を自我と見ているようですが、それは自我の西洋的環境でのあり方ではないかと疑う必要があるのではないでしょうか。釈迦や、老子、孔子にとっても自我が本質的な問題だったはずです。ただ、人間の自我(私・エゴ)を肯定的に尊厳性としてとらえるか否定的に劣性としてとらえるかの違いではないでしょうか。東洋の精神は論理的理性を否定する方向に向かったと考えた方がいいのではないでしょうか。
自我と理性を同一視、あるいは自我に理性を付属させて肯定的であった西洋にとっても、実はこの「自我」(自我 - Wikipedia参照のこと)なるものを何ととらえるかは人・立場によって様々で、現代では非常に難しいことのようです。
自我に否定的な東洋でも唐代、華厳哲学の頃にも自我の理性的な働きについて考えることがあったようですが、あくまで自我に否定的で、天の法・理や気(理気説)に属するものととらえているようです。
このように東西の自我のあり方の違いは自我の方向性と考えることができると考えます。神話的段階の「突出した意識」、唯一の絶対的存在は「神」だけではなく「天」や「仏法」、あるいは「混沌」ということも考えるべきではないかと思います。それ故にウイルバーのいう「各時代のなかでももっとも進化し、その時代から突出した意識」のあり方、考え方は、この頃からから大きく分離多様化していったと見るべきではないでしょうか。特に東西では大きく違った見方をする必要があると思います。
ウイルバーはギリシャから始まる西洋的理性や論理的精神・主観を自我と見ているようですが、それは自我の西洋的環境でのあり方ではないかと疑う必要があるのではないでしょうか。釈迦や、老子、孔子にとっても自我が本質的な問題だったはずです。ただ、人間の自我(私・エゴ)を肯定的に尊厳性としてとらえるか否定的に劣性としてとらえるかの違いではないでしょうか。東洋の精神は論理的理性を否定する方向に向かったと考えた方がいいのではないでしょうか。
自我と理性を同一視、あるいは自我に理性を付属させて肯定的であった西洋にとっても、実はこの「自我」(自我 - Wikipedia参照のこと)なるものを何ととらえるかは人・立場によって様々で、現代では非常に難しいことのようです。
自我に否定的な東洋でも唐代、華厳哲学の頃にも自我の理性的な働きについて考えることがあったようですが、あくまで自我に否定的で、天の法・理や気(理気説)に属するものととらえているようです。
このように東西の自我のあり方の違いは自我の方向性と考えることができると考えます。神話的段階の「突出した意識」、唯一の絶対的存在は「神」だけではなく「天」や「仏法」、あるいは「混沌」ということも考えるべきではないかと思います。それ故にウイルバーのいう「各時代のなかでももっとも進化し、その時代から突出した意識」のあり方、考え方は、この頃からから大きく分離多様化していったと見るべきではないでしょうか。特に東西では大きく違った見方をする必要があると思います。
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