大リーグ、パドレスのダルビッシュ有投手(38)
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ダルビッシュ 有(ダルビッシュ ゆう、本名:ダルビッシュ・セファット・ファリード・有、英: Sefat Farid Yu Darvish[4]、1986年8月16日 -38歳 )は、大阪府羽曳野市出身のプロ野球選手(投手)。
右投右打。
MLBのサンディエゴ・パドレス所属。
■家族
イランのテヘラン出身であるダルビッシュ・セファット・ファルサ(Farsad Darvishsefat)とアメリカ留学中に知り合った日本人女性との間に生まれる[9]。ファルサは元サッカー選手で、母国イランの「イラン野球連盟」顧問に就任している他、事業を手広く扱っている。
父親が共同経営するジャイレックス(大阪市住之江区)が「ダルビッシュ」の名称の商標を出願(商願2003-103566号)し、登録されている(登録番号:第4796097号)。
なお、父の出身国であるイランはシーア派のムスリムが多数を占めるが、
ダルビッシュ有自身はムスリムではないことを2010年9月13日に自身のTwitterで明かしている[10]。
2015年に格闘家の山本聖子との間に男児が誕生[11]。
当初は事実婚であったが、2016年に婚姻届を提出し、正式な夫婦となった[12]。
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■経歴
プロ入り前
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イラン人の父と日本人の母を両親に持ち[15]、3人兄弟の長男として生まれた。幼少時代、幼稚園に入るまで英語を使っていた[16]。
当時6歳だった1993年6月9日に石川県立野球場で行われた巨人対ヤクルト戦が生まれて初めての野球観戦となった。
この試合で篠塚和典が伊藤智仁からサヨナラ本塁打を打ち、選手の喜ぶ場面を見たことが後に野球を始めるきっかけとなった[17]。
小学2年生で、地元の野球チーム「羽曳野ブラックイーグルス」で野球を始め[18]、当時はアイスホッケーも行っていたが[19][20]、後に野球のみに絞る[20]。
全羽曳野ボーイズでは中学校3年生時にエースとして全国大会ベスト8、
世界大会3位という成績を収めた[21]。
3年夏時点での球速は144 km/hであったという[18]。
東北高等学校に2002年4月に入学した。
同校には2年先輩で、その後ヤクルトに入団した高井雄平がおり、目標としていた[22]。 高校進学にあたっては50校を超える高校からスカウトがあった。「寮生活で親元から離れられること」、「上下関係が比較的緩いこと」を条件に上宮太子高校(大阪府)、広陵高校(広島県)、東海大学菅生高校(西東京)、前橋育英高校(群馬県)及び東北高校の5校に絞った上で監督の若生正廣の人柄、高井雄平の存在やチームの雰囲気から東北を選んだ、と自身のYouTubeチャンネルで語っている[23]。
入学後いわゆる成長痛に苦しみ別メニューを行っていたが[24]、春からベンチ入りし、1年生秋からエースに就き、背番号1をつけた[18][25]。
10月の東北大会で優勝[18]、2002年11月15日に行われた明治神宮野球大会の平安高校戦で全国デビューし、被安打7、12奪三振で完封勝利を飾り[26]球速は最速147 km/hを計測した[26]。
その結果、チームはベスト4の成績を残した[18]。
3年生時の2004年6月27日の横浜高校戦(秋田県立金足農業高等学校主催の招待試合)では自身初の150 km/hを計測している[27]。
甲子園には2年春夏、3年春夏と4度出場。2年春は開会式後、女性に握手を求められた際に強く引っ張られ右棘下筋痛で全治2週間と診断される[28]も、3月26日の静岡県立浜名高等学校戦で、完投勝利(2対1)を果たす[18]。
3回戦では花咲徳栄に打ち込まれ敗退。2年夏は1回戦で腰を痛め、2回で早期降板したもの[29]の、2番手投手の真壁賢守の奮闘もあり決勝進出。
決勝で坂克彦を擁する常総学院に2対4で敗れて準優勝。
東北勢初優勝とはならなかった[18]。
大会後に野球部キャプテンに就任[30]。主将として臨んだ10月の東北大会は2連覇を果たす[18]。
3年春は1回戦で熊本工相手に大会史上12度目・10年ぶりとなるノーヒットノーランを達成する[31][32][注 1]。
しかし2回戦を前に今度は右肩を痛め、準々決勝に登板せず敗北[33]。
夏の県大会決勝にて利府高校を20対1で下し優勝、4季連続で甲子園出場を果たした。
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が、制限リストに入っていた約50日間の報酬である約400万ドル(約5億7000万円)を巡り、受け取りを辞退したことが、米メディアで話題となっている。
球団のAJ・プレラー・ゼネラルマネジャー(GM)からは故障者リスト(IL)入りすることで報酬を受け取ることができるよう提案されたが、「球場に行って練習をしたりすることができなかった」ことなどを理由に、受け取りを辞退した。ダルビッシュが示した行動と、球団の誠意に対し、米メディアからは称賛の声が上がっている。
■制限リスト期間中は無報酬
ダルビッシュは5月末に左脚付け根の張りを訴え、IL入り。
その後、調整の過程で右肘の炎症が判明し、6月末の復帰予定を延期していた。
7月6日からは「家族に関する個人的な事情」を理由に制限リストに入っていた。
8月23日には15日間のILへ移行し、9月中の実戦復帰が期待されている。
米老舗雑誌の「スポーツ・イラストレーテッド」(電子版)によると、「プレラー(GM)はダルビッシュに対し、給与の支払いを受け続けられるILに残る選択肢を与えていたが、ダルビッシュはそれを拒否した」という。
制限リストは、出場停止処分を受けた場合や、個人的な事情からチームを離れる場合などに登録され、その期間中は無報酬となる。
米メディアのジ・アスレチック(電子版)は「プレラーは当初からダルビッシュに60日間のIL入りの機会を与えようとしており、私がこれまで担当したほかの選手なら、誰でもそうしただろうと思う」という代理人のジョエル・ウルフ氏の談話を紹介している。
■GMには「本当に感謝」
ダルビッシュは27日、自身のX(旧ツイッター)のアカウントを更新。報酬の辞退について「勘違いして欲しくないのは怪我をしてプレーできないからお金を受け取らなかったのではなく、球場に行って練習をしたり、遠征に帯同することが出来なかったためです」と説明し、「その状況でも制限リストではなく60日ILに入れて給料を払いたいと言ってくださったAJプレラーGMの優しさには本当に感謝しています」(原文ママ)と謝意をつづった。
ダルビッシュは昨年2月、パドレスと6年総額1億800万ドル(当時のレートで約142億円)で契約を延長している。契約延長の交渉にも尽力したプレラーGMは一時、ア・リーグ西地区のレンジャーズのフロントにも在籍。大リーグではレンジャーズが最初の所属球団だったダルビッシュとは10年以上続く旧知の仲でもあり、固い絆で結ばれている。
あくまでもプレーをすることで報酬を受け取るという〝男気〟を示したダルビッシュと、球団として最大限の誠意を示したプレラーGM。
スポーツ・イラストレーテッドは「この特異な状況は、プレラー(GM)とダルビッシュ双方の性格を物語っている。
野球よりも大きなものがあるのだ」としている。