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幼少期に両親が離婚、3人兄弟で父方に引き取られ高知県に移る。しかし父親の育児放棄により児童相談所に収容される。その後、父に引き取られ、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着く。この間、高知や大阪などで10数回の転校を繰り返す。
父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをするようになった。そのうちに中学の友人から制服の改造を頼まれ、中学生にしてミシンを踏むようになり[6]、のちにお針子を目指すようになった[3]。そのきっかけとなったのが、映画『太陽がいっぱい』のファッションセンスに惹かれたからであった[3]。また、応援団長となり、さまざまな応援の振り付けを考えるようになった[6]。
高校へ通う折、建築科に通いたかったもののその学校にはなく、建築科と課程が同じだろうと思って土木建築科に通った[3]。実際に通ってみると、建築の基礎となる土木工事に関するものが中心とする課程で、かつ現場では賄いのおばさんしかいなかったので、挫折する経験をした[3]。
ある時、電信柱に貼ってあった
第2回日本アマチュアシャンソンコンクールのポスターを見て、これに応募[3]。オクターブ違いの「愛の讃歌」で出場するも結果は鐘一つだった[3][7]。
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「愛の賛歌#越路吹雪」「しあわせの扉#佐々木信子」めだかRatube25/
シャンソン歌手 クミコのチャリティーコンサート 愛の賛歌/
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この時の優勝者が加藤登紀子で、のちに所属事務所との縁で彼女と一緒に仕事することになり、「あの時寛斎さんが受からなくてよかったね。だから今、私たちの舞台に来て、挨拶ができるようになりました。」と感謝されており、以後親しい友人となっている[3]。
大学進学のため、上京。横浜で洋裁教室をしていた実母と再会し、ここで装苑賞の存在を知り応募に至る。その後コシノジュンコ、細野久などのデザイナーの下で働いた後、
1971年に独立して、株式会社「やまもと寛斎」を設立した。同年、ロンドンで、日本人初となるコレクション 『Kansai in London』を実施した。
1973年には、デビッド・ボウイのステージ衣装「TOKYO POP」も手がけ、1975年にはパリで既製服のコレクションを発表した。
また、山本は
2010年に開業した日本の京成電鉄・成田スカイアクセスの新AE形の車輌デザインを担当したが、車体色の選定は候補の7色を直接車両に塗って行ったという[9]。
2020年3月31日、2月に急性骨髄性白血病との診断を受け、入院し治療中であることを公表した[10]。同年7月21日、急性骨髄性白血病により死去した。76歳だった。
娘・山本未來が「父、山本寛齋は去る7月21日、私を含め家族が看取る中、安らかに76歳にてこの世を旅立ちました」と報告した[2]。同年開催された「BUSTERCALL=ONE PIECE展」に出展された「『ひとつなぎの大秘宝(ワンピース)』を手に入れたモンキー・D・ルフィが着ているであろう『海賊王』のコート」が生前最後のアート作品となった[11][12][13]。
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