更新日:2020年3月2日 ページID:009222
■シーボルトの生い立ち
シーボルトは、1796年2月17日にドイツのヴュルツブルクという町で、医学者の家に生まれました。ヴュルツブルク大学医学部に入学し、医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学びました。大学を卒業したあと、近くの町で医者として働いていましたが、見知らぬ国の自然を勉強したくて、そのころ世界中で貿易をしていたオランダの陸軍軍医となりました。
シーボルトは、オランダの命令で日本へ行くことになりました。それもただの医者としてだけではなく日本との貿易のために日本のことについて調べるようにも命じられていました。
シーボルトは、オランダの命令で日本へ行くことになりました。それもただの医者としてだけではなく日本との貿易のために日本のことについて調べるようにも命じられていました。
■シーボルトの活動
シーボルトは、1823年8月11日 (文政6年7月6日)に、長崎へ到着しました。
そのころ日本に来た外国人は、出島から出てはいけませんでしたが、シーボルトはすぐれた医者でしたので長崎の町に出て病人を診察することを特別に許されました。
シーボルトは、長崎に来た翌年、長崎の鳴滝(なるたき)にあった家を手に入れました。彼はここに「鳴滝塾」を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えています。ここで学んだ人々は、やがて医者や学者として活躍しました。
シーボルトは、この家に何人かの生徒たちを住まわせて、自分の日本研究の手伝いをしてもらいました。手伝ってくれた人には、医学を勉強した証明書をあげたり、医学の本や器具などを与えました。 また、シーボルトも日本人から日本のことをいろいろと教えてもらいました。
そのころ日本に来た外国人は、出島から出てはいけませんでしたが、シーボルトはすぐれた医者でしたので長崎の町に出て病人を診察することを特別に許されました。
シーボルトは、長崎に来た翌年、長崎の鳴滝(なるたき)にあった家を手に入れました。彼はここに「鳴滝塾」を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えています。ここで学んだ人々は、やがて医者や学者として活躍しました。
シーボルトは、この家に何人かの生徒たちを住まわせて、自分の日本研究の手伝いをしてもらいました。手伝ってくれた人には、医学を勉強した証明書をあげたり、医学の本や器具などを与えました。 また、シーボルトも日本人から日本のことをいろいろと教えてもらいました。
■シーボルトの江戸参府
シーボルトは、1826年(文政9)、オランダ商館長の江戸参府に同行しました。当時の日本では、外国人が日本の国を自由に旅行することを禁止されていましたので、シーボルトにとって日本のことを調べる絶好の機会でした。旅の途中で植物や動物の採取をしたり、気温や山の高さをはかったりしました。また、多くの日本人が病気やけがの治療法(ちりょうほう)や西洋の知識を教わりにきました。
江戸では、将軍や幕府の役人にあいさつをしたり、多くの医者や学者に会ってお互いの知識や情報を交換したり、日本研究に役立てるための品物をもらったりしました。この旅行の時に集めた本や絵、いろいろな品物は、船でオランダまで送られました。シーボルトは、日本から帰った後に、調べたことを本で紹介したり、集めたものを博物館で見せたりしています。
江戸では、将軍や幕府の役人にあいさつをしたり、多くの医者や学者に会ってお互いの知識や情報を交換したり、日本研究に役立てるための品物をもらったりしました。この旅行の時に集めた本や絵、いろいろな品物は、船でオランダまで送られました。シーボルトは、日本から帰った後に、調べたことを本で紹介したり、集めたものを博物館で見せたりしています。
■シーボルト事件と国外追放
江戸参府のあと、「シーボルト事件」が起こりました。これは、シーボルトが日本調査のため集めた品物の中に、日本地図や将軍家の家紋である葵の紋付きの着物など、そのころ日本から持ち出すことが禁じられていたものがあったからです。長い取り調べのあと、関係があった人びとは処罰され、シーボルトは国外追放(2度と日本に来てはならない)を申し渡されました。
シーボルトは、生徒たちに別れをつげて、オランダに帰国しました。ヨーロッパに帰ったシーボルトは日本で集めた資料や知識をもとに、日本についての本格的な研究書である『日本(ニッポン)』や、日本の植物・動物を紹介する『日本植物誌(にほんしょくぶつし)』『日本動物誌(にほんどうぶつし)』などを書いて出版しました。また、日本の植物を栽培し、ヨーロッパに普及させました。
シーボルトは、生徒たちに別れをつげて、オランダに帰国しました。ヨーロッパに帰ったシーボルトは日本で集めた資料や知識をもとに、日本についての本格的な研究書である『日本(ニッポン)』や、日本の植物・動物を紹介する『日本植物誌(にほんしょくぶつし)』『日本動物誌(にほんどうぶつし)』などを書いて出版しました。また、日本の植物を栽培し、ヨーロッパに普及させました。
■ふたたび日本に来る
シーボルトが日本をさって30年後、国外追放がとかれ、1859年(安政6)、ふたたび日本に来ることができました。長崎に到着したシーボルトは、なつかしい鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・いねたちと交流しながら日本研究を続けました。また、幕府にまねかれて、江戸でヨーロッパの学問を教えました。3年後に日本をさり、1866年10月18日、ドイツのミュンヘンで70歳で亡くなりました。
■シーボルトと楠本たき・いね
シーボルトは長崎の女性・楠本たきとむすばれ、彼女を「オタクサ」と呼んでいました。やがてシーボルトは、はじめてみる美しい花(アジサイ)に出会い、その花に愛する人の名をとり 「ヒドランゲア・オタクサ」と名づけ、『日本植物誌』に掲載しました。
二人の間には文政10年(1827)、娘・いねが生まれました。いねは父と同じ医学の道をこころざし、石井宗謙・二宮敬作・ポンペらに医学を学び医師として活躍しました。長崎や東京で開業し、明治6年(1873)、明治天皇の若宮が誕生するときには、宮内省御用掛となり、出産に立ち会いました。明治36年(1903)、東京で亡くなりました。
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