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ザ人物伝 フローレンス・ナイチンゲール90歳没心臓病

2021-06-26 13:18:03 | 連絡
フローレンス・ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年5月12日 - 1910年8月13日、90歳没心臓病)は、イギリスの看護婦、社会起業家、統計学者、看護教育学者。
近代看護教育の母。「光掲げる貴婦人」、「クリミアの天使」と称されており、病院建築でも非凡な才能を発揮した。
クリミア戦争での敵・味方の分け隔てない負傷兵たちへの献身や統計に基づく医療衛生改革で著名[1]。
国際看護師の日(5月12日)は彼女の誕生日である
ロンドンの聖トーマス病院に付属してナイチンゲール看護学校を設立、これは世界初の宗教系でない看護学校であり、現在はキングス・カレッジ・ロンドンの一部となっている。
ギリシア哲学についても造詣が深く、オックスフォード大学のプラトン学者、ベンジャミン・ジョウェット(英語版)とも親しく交流した。
クリミア戦争へ
しかし、1854年にクリミア戦争が勃発すると、転機が訪れた。ロンドンタイムスの特派員ウイリアム・ハワード・ラッセル(英語版)により、クリミア戦争の前線における負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況となっているかが伝えられるようになると、一気に世論は沸騰する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固める。
事態を重くみたシドニー・ハーバート戦時大臣は、ナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。10月21日、ナイチンゲールはシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かい、11月に到着した。
しかし、兵舎病院は極めて不衛生であり、官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかった。さらに現地のホール軍医長官らは、縦割り行政を楯に看護婦団の従軍を拒否した。ナイチンゲールらは、病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることによって病院内へ割りこんでいった。
しかし味方がいないわけではなかった。ヴィクトリア女王はハーバート戦時大臣に対し、ナイチンゲールからの報告を直接自身に届けるようじた。
ハーバートはすぐにこれを戦地に送り、病院内に貼り出させた。ナイチンゲールと看護婦団、そして傷病兵らは元気付けられ、対抗勢力には無言の圧力となった。
こうした経緯を経て、彼女はスクタリ病院の看護婦の総責任者として活躍した。後に判明することであるが、着任後に死亡率は上昇 (42%) したものの、『衛生委員会』の査察で衛生状態の改善により好転した。当時、その働きぶりから「クリミアの天使」とも呼ばれた。
看護婦を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来する
夜回りを欠かさなかったことから、「ランプの貴婦人(または光を掲げる貴婦人)」とも呼ばれた。ナイチンゲール自身はそういったイメージで見られることを喜んでいなかったようである。本人の言葉としては、「天使とは、美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者のために戦う者である」が知られる。
ナイチンゲールの従軍後の1855年、戦時省と陸軍省が合併すると若干事態は好転した。新陸軍省は衛生委員会を組織し、現地へ調査団を派遣した、そして、ナイチンゲールの報告どおり、病院内を衛生的に保つことを命令した。この命令の実施により、2月に約42%まで跳ね上がっていた死亡率は4月に14.5%、5月に5%になったことが後に判明した。
兵舎病院での死者は、大多数が傷ではなく、病院内の不衛生(蔓延する感染症)によるものだったと後に推測された。
この間もナイチンゲールは陸軍内の政治的トラブルに巻き込まれる。もっとも大きなものは、ナイチンゲールの辞令の任地に最前線であるクリミア半島が含まれていないことを楯に、ホール軍医長官がその活動を制限したことだった。最終的には、この部分を修正した女王名による新たな辞令が届くが、これは1856年の講和直前のことであった。
1856年3月30日パリで平和条約が締結され、4月29日にクリミア戦争が終結する。7月16日には病院の最後の患者が退院した。
講和後
ナイチンゲールは国民的英雄として祭り上げられることを快く思わず、8月6日、スミスという偽名を使用して人知れず帰国した。帰国後の11月、ナイチンゲールチームはバーリントンホテルに集結し、タロック大佐の克明な報告書を読みながら病院の状況分析を始める。数々の統計資料を作成し、改革のためにつくられた各種委員会に提出した。特に死亡原因ごとの死者の数をひと目で分かるように工夫した、放射線状に伸びた数値軸上の値を線で結んだ多角形のグラフは、「コウモリの翼」や「鶏の鶏冠」と呼ばれ、当時はまだ円グラフも棒グラフもなかった時代で、有名になった。これは今日では、クモの巣チャート(レーダーチャート)と呼ばれている。
このためイギリスでは、ナイチンゲールを統計学の先駆者としている。これによる改革は保健制度のみではなく、陸軍全体の組織改革につながった。ナイチンゲールは1859年にイギリス王立統計学会の初の女性メンバーに選ばれ、後にはアメリカ統計学会の名誉メンバーに選ばれた。
ナイチンゲールは「自分は(クリミア戦争における英国の)広告塔となる」ことをいとわなかった。しかし、あまりに広告塔として利用されたせいか、戦争終結後はむしろ有名人として扱われるのを嫌うようになる。それが昂じて遺言では、墓標にはイニシャル以外を記すことを許さなかった。
彼女自身が看護婦として負傷兵たちに奉仕したのはクリミア戦争従軍時の2年間だけであり、その献身の象徴的イメージ、そしてむしろ統計に基づく医療衛生改革で名声を得た。37歳(1857年)の時に心臓発作で倒れてしまい、その後は慢性疲労症候群に由来すると考えられる[要出典]虚脱状態に悩まされた。死去するまでの約50年間はほとんどベッドの上で過ごし、本の原稿や手紙を書くことが活動の柱となった。
晩年は年老いた親の看病などに当たるが、1874年に父親が80歳で没し、1880年に母親が91歳で没したあとは活動も少なくなり、1890年に姉が71歳で没し、以降はずっと自宅にいることが多くなった。1910年8月13日に、バーンレーンの自宅で静かに息を引き取った(享年90)。死去に当たり、国葬を打診されたが遺族が辞退した。








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