大隈 重信(おおくま しげのぶ、1838年3月11日〈和暦:天保9年2月16日〉- 1922年〈大正11年〉1月10日。癌と萎縮腎により85歳没)は、日本の政治家[1]。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。菅原姓[2]。
参議、大蔵卿、内閣総理大臣(第8・17代)、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)内務大臣(第30・32代)、枢密顧問官、貴族院議員。報知新聞経営者(社主)[3]。同志社大学社友。
政党内閣制を基軸にした即時国会開設を主張するなど議会制推進。
早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ教育者。
略歴
幕末佐賀藩の上士の家に生まれて志士として活躍し、明治維新期に外交などで手腕をふるったことで中央政府の首脳となり、参議兼大蔵卿を勤めるなど明治政府の最高首脳の一人にのぼり、明治初期の外交・財政・経済に大きな影響を及ぼした。
明治十四年の政変で失脚後も立憲改進党や憲政党などの政党に関与しつつも、たびたび大臣の要職を勤めた。
明治31年(1898年)には内閣総理大臣として内閣を組織したが短期間で崩壊し、その後は演説活動やマスメディアに意見を発表することで国民への影響力を保った。
大正3年(1914年)には再び内閣総理大臣となり、第一次世界大戦への参戦、勝利し、対華21カ条要求などに関与した。
また教育者としても活躍し、早稲田大学(1882年、東京専門学校として設立)の創設者であり、初代総長を勤めた。早稲田大学学内では「大隈老侯」と現在でも呼ばれる。
大隈は大正10年(1921年)9月4日から風邪気味となって静養を始めたが、腎臓炎と膀胱カタルを併発して衰弱していった。
大正11年(1922年)1月10日4時38分、大隈は早稲田の私邸で死去した[159]。死因は腹部の癌と萎縮腎と発表された[159]。享年85。
1月17日に私邸で神式の告別祭が執り行われたのち[161]、日比谷公園で「国民葬」が挙行された[157]。その名が示すように、式には約30万人の一般市民が参列し、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。大隈・憲政会系の新聞である『報知新聞』は100万人が沿道に並んだと報じている[160]。その後、6時50分より
東京都文京区の護国寺にある大隈家墓所で埋葬式が行われ、7時30分に墓標が建てられ、埋葬された[162]。また大阪市・札幌市・京城・北京などの各都市でも告別式が行われている[162]。佐賀市の龍泰寺にも大隈の墓所はある。
政策[編集]
大隈は民間投資を重視する、いわゆる「小さな政府」論の支持者であった[163]。
人物像[編集]
- 大隈は、庶民に近い明るいイメージで「大平民」などと形容された。実際には土地転売などで巨利を上げ、多くの使用人を雇うなどの生活をしていたが、早稲田出身のジャーナリストも多く、良好な関係を築いていたため、このイメージが崩れることはなかった[164]。
- 「あるんである」、もしくは「あるんであるんである」という言い回しを好んで用いた[注釈 8]。
- 現在残されている大隈の関連文書はすべて口述筆記によるものであり、大隈自身の直筆のものは存在しない。これは弘道館在学中に字の上手な学友がいて、大隈は字の上手さでその学友に敵わなかったため、書かなければ負けることはないと負けず嫌いで字を書くことをやめ、以降は勉強はひたすら暗記で克服し、本を出版するときも口述筆記ですませ、死ぬときまで文字を書かなくなったためと言われている。
- しかし、大日本帝国憲法発布の際には内閣総理大臣以下国務大臣の副署は自署でなければならず、当時、外務大臣であった大隈の貴重な直筆が残っている。御署名原本の中の内閣総理大臣以下国務大臣の副署にある「大隈重信」の文字だけがあまり達筆ではないことがみられる[166]。
- 外交官として実績を持つ大隈は、英語文を読むことはできず、訳文を読んで判断を行った[167]。蘭学寮時代には「勘」でオランダ語解読を行っており、優秀な成績を上げていたという[168]。また700ページほどのオランダ語で書かれたナポレオン伝記を、1年半かけて読破したという[169]。
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