4月のカースティン・フランセス葉山リトリートでは、兄弟という聖霊から何度も同じメッセージをいただいた。
同じホテルに泊まった兄弟にある事をシェアしたら、
その兄弟が、「お風呂に入っていたらインスピレーションが降りてきたんだけど、それは形のレベルの事ではなく、自我と同一化する生き方から聖霊と1つの生き方に変わるという事だと感じました」とシェアして下さった。
そして、同じホテルではないけど、初めてお会いした兄弟や、今回で2回目にお会いした兄弟からも、私のことを具体的に知らないはずなのに「これナナシさんにシェアした方がいいと思って~」と同じ様なメッセージを言われた。
それは、本当に分離した個人のメッセージではなく、聖霊のメッセージだと受け取った。
自我は、マザーテレサが言われていた神のペンになる生き方をとても恐れている。
何故ならば、自分を守ってくれていたものを全て失う……
個のアイデンティティーを保持するために、お気に入りの仮面を握りしめていた。
それを失うのは、損失だと強烈に信じてるからだ。
そして、自我の消滅・死に繋がる。
でも、もともと無なのだから、無だったのだとの自覚が取り戻されるだけなのだ。
そして、カースティン、フランセス、デーヴィッドさんが、神のペンになって生きることがどれだけ幸せで在るのかを教えて下さった。
この幻想世界は無なので、その中そのものが幸せではなく、聖霊が自我が妄想した幻想を神の愛の反映として使って下さるのだ。
今回のリトリートで、幻想世界をイエスに使っていただくならば、常に真実が何かを教えて下さっているだと深く実感した。
自我は、
目覚めのために、何が起こるのか……
何が起こったらいいのか……
と現象レベルをリアルにして、そこに焦点を当てさせようとするが、
既に終わっていて、そもそもそれは起こっていない。
世界の中に居る様な個の私の肉体が終わるまでの映像が、勝手に流れていく。
でも、それは全くもって重要ではない。
私が完全に引き下がり、イエスに、神の愛が在るのみだと真に見させていただく。
それを、常に、いまやるのみなのだ。
イエス、聖霊、神さま
いつも、教えて下さり有難うございますm(__)m