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8月30日(日)に、インターネットで東京の教会の第7礼拝のメッセージを
聞きました。
その時に、代々クリスチャンの家系で、ご自分は5代目というハンさんが、
新約聖書のルカの福音書15章のイエス様がお話された放蕩息子の譬え話から
お話をされました。譬え話の概要は、
「ある人に、二人の息子がおり、弟が、財産の分け前をください、というので、父は
二人に身代を分けてやりました。
弟は家を出て、遠い国に旅立ち、放蕩して財産を使い果たしてしまいました。
ことここに至って初めて悔い改めた弟が、父のところに帰った時、
父は、遠くから彼を見つけ、可愛そうに思い、
走り寄って彼を抱き、口づけしました。そして、再び息子として迎え、
最大級の歓迎の祝宴を始めました。
ところが、父の元で忠実に働いていた兄は、父のこの歓迎ぶりが気に入らず、
不満をもらしたのです。」といものですが、
この譬え話を解説した本が、韓国でベストセラーになったそうです。
その本に、人間は、2種類の罪人に分けられるあり、弟は、自己愛中心に生きる人間、
兄は、自分の義を立てようとする人間のことだと書かれているのをハンさんは読み、
そこからご自分の体験を話してくださいました。
私は、丁度、この頃、この箇所を読んだ時で、
行方不明の弟が戻って来たのに、なぜ、兄は喜ばず、まず、不満を口にしたのだろうか?
ここに書かれている兄は、父に従順、戒めを一度も破ったことのない模範的、まじめ人間、
「忠実」の見本のような兄なのに、弟に対する「愛」がないのはなぜか?
忠実に愛が伴わないことはどういうことかと考えさせられていた時でしたので、
ハンさんのお話がこの疑問にたいする答えとなりました!
ハンさんは、「自分の義が神様によって破られ、自分の力でやれることは何もない
といことに気がつかされて来た時、預言を通して以前から語られていた神様の
働きがこんな私にできるだろうかと思った。しかし、何もできないと知った時、
その大きな働きに用いられるようになった。私たちは土の器に過ぎず、土の器を通して
神様が働かれる。」ということをお話されました。
自分の義を立てようとする兄には、愛は生まれないのですね。