日日是好日

退職後の日々を写真で記録

野口英世と北里柴三郎

2024-06-09 09:06:08 | 野口英世
7月3日に新しい紙幣が発行される。20年ぶりだという。
自動販売機などの新紙幣対応に多額のお金がかかるとのニュースが流れていた。

新紙幣の肖像画は1万円札が渋沢栄一に、五千円札が津田梅子に、千円札が北里柴三郎に変わる。



一昨日に書いた「野口英世青春館」の流れで、野口英世と北里柴三郎について書いてみようと思う。

北里柴三郎と野口英世は師弟関係にある。
英世は明治30年(1897)に医師の資格をとり翌年、伝染病研究所の助手となるが、その時の所長が北里柴三郎であった。
明治32年(1899)、ペンシルバニア大学のフレキスナー博士が伝染病研究所を訪れた際に英世は通訳を務めた。
英世は会陽医院の書生時代に独学で語学と医学をマスターしたと言われる。
それで北里柴三郎から通訳をするように言われたのではないかと思われる。
英世は通訳をしたというだけの縁で、明治33年(1900)12月にペンシルバニア大学にフレキスナー博士を訪問し助手となる。

英世が北里柴三郎が所長をしていた伝染病研究所に所属していたのは3年間ほどであったが、この間に英世が北里柴三郎から直接指導を受けたことは無かったであろう。
上記に師弟関係と記したが、正確には北里柴三郎が所長をしていた研究所に英世が所属していて、一度北里柴三郎の通訳を務めたというのが正しいと思われる。

伝染病研究所は明治25年(1892)に福沢諭吉の援助で設立され、北里柴三郎が所長になり、そこに野口英世が所属していた。
この三名とも紙幣の肖像画になっているのも面白い。


「キャッシュレスカードスマホで金要らず」

 6/8の歩数:2,583歩(休み)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口英世青春館

2024-06-07 08:20:11 | 野口英世
(続き)

鶴ヶ城入り口から再び周遊バス「あかべぇ」に乗り野口英世関係の施設に向かった。「あかべぇ」はそこへは行かないので近くのバス停で下りて、歩いて探していると「野口英世青春通り」の標識を見つけた。


その通りを進むと野口英世青春広場前のバス停を発見。
このバス停は別の周遊バスハイカラさんのもの。


この広場の奥には英世の像が建っており、土日には催しものが行われるようである。


広場奥の忍耐と刻まれた英世の像


更に進んでも見つからず、通りかかった若い女性に聞いたところ、「あの信号のあたりです。是非どうぞ。」と教えてくれた。
「是非どうぞ」には野口英世を誇りにしている気持ちが込められているように思えた。
ようやく「英世青春館」を見つけることができたが、狭い入り口は中学生と思われる人のグループで混雑していた。
200円の入場料(子供は100円)を払い、靴を脱いで、狭い階段を上がった。


ここは渡部鼎医師が火傷をした清作(英世の幼名)の左手を手術した会陽医院跡である。


清作は16歳のとき左手の手術を受け、17歳で会陽医院の書生として入門し、医学の勉強をした二階の部屋が残っており、それが野口英世青春館となっている。

野口英世青春館の様子。


清作が使用していた机と火鉢


会陽医院で渡部医師が使用していた顕微鏡。


内部の様子。


一階の医院だった所は、現在は喫茶店になっている。
折角である。喫茶店に入りコーヒーを注文すると下の写真のようなカップのコーヒーが出てきた。


(おまけ)

会津若松駅前で見つけたもの

あいづっこ宣言


白虎隊の像


駅構内にあった馬刺しの自動販売機




「遇ったのは英世誇りの会津人」

 6/4の歩数:9,454歩
 6/5の歩数:10,182歩


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唱歌 野口英世

2020-07-28 10:44:47 | 野口英世
朝から小雨が降り続いています。
テレビのニュースでは東北・新潟は明日にかけて大雨が降ると告げてました。
外出する気も起きず、野口英世の写真集を見てました。

(編集・発行 財団法人野口英世記念会)

最終ページの前に野口英世の唱歌が載っているのは知っていましたが、よく見ると作曲したのが今朝ドラで放送されている(コロナで中断中で再放送)古関裕而であることに気が付きました。しかも作詞が土井晩翠です。


野口英世と古関裕而が同郷であることから作曲したのでしょう。
しかし、楽譜を見ても残念ながらメロディーは浮かんできませんし楽器もありません。
何とか聞いてみたいと思い、もしかしたらYouTubeにあるかもしれないと探してみると有りました。
一度聞いてみてください。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日は野口英世の命日

2020-05-21 09:10:01 | 野口英世
5月21日は野口英世の命日です。
黄熱病の研究中に西アフリカのアクラで黄熱病に罹り1928年(昭和3年) 51歳で亡くなりました。
英世は黄熱病の原因はレプトスピラという細菌と信じて研究してました。



しかし黄熱病の原因は今世界中を席捲している新型コロナウイルスと同様なウイルスでした。
しかしウイルスは電子顕微鏡が開発される1931年まで見つけることができませんでしたので英世が黄熱病の原因微生物を発見することは不可能でした。
(しかし電子顕微鏡が無かった理由だけではなく、野口英世はなぜ間違ったのか を別に考察しました。)

英世の遺体はニューヨークのロックフェラー医学研究所へ運ばれ葬儀のあとウッドローン墓地に埋葬されました。
墓石がつくられ墓標には英世を称える文が刻まれています。


(野口英世記念館にあるウッドローン墓地の墓標のレプリカ)

日本にも野口英世夫妻のお墓があります。
野口英世記念館近くの長照寺にあり遺髪が収められています。







英世の妻のメリー夫人



機会がありましたら福島県猪苗代の野口英世記念館を訪れてみてください。
東京には野口英世記念会館があり展示物もあります。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野口英世記念展&猪苗代物産展

2017-10-19 19:59:58 | 野口英世
平成29年10月19日(木)

今日の朝刊に新潟日報メディアシップで「野口英世&猪苗代物産展」が今日・明日と開催されると載っていたので、義弟を見舞ってから行ってみた。
小規模であったが英世の関係写真と猪苗代の物産が並んでいた。
初めて見たが、英世のキャラクター「ひでよくん」が来ていた。



まず英世のプロフィール。



英世は新潟に来ており、新潟の人にもお世話になった。



石塚三郎は五泉の隣の阿賀野市出身で英世とは高山歯科医学院で共に学んだ仲。
他にも多くの写真が並んでいた。





猪苗代の物産を一つ購入して帰って来た。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする