日日是好日

退職後の日々を写真で記録

いじめと院内感染

2012-08-20 20:55:58 | 日記
大津のいじめ問題が波紋を広げている。
自殺者が出たため、犯人探しまで始まって、週刊誌も興味本意に書きたてている。
滋賀県警は学校と教育委員会の強制捜査まで行った。
学校でいじめによると思われる自殺者が出ると何時も気になることがある。
それは学校側から必ずといって良いほど聞かれる「いじめは見当たらなかった」とのコメントである。学校の隠蔽体質と呼ばれる所以である。
これは何故なのか。いじめが有ったことを認めると何か学校側に不利益があるからであろう。
それは、いじめの有る学校とのイメージが付く。また、その学校の校長先生や担任の先生の評価が下がるとも聞く。

これと似たような現象が病院でもあった。それは病院で発生する院内感染である。以前は病院で院内感染が発生しても、それを発表する病院はなかった。
それは学校がそうであった様に、病院も入院すると別な病気に罹るとの評判が立つのを恐れてのことであろう。
しかし患者側が不審に思い裁判所に訴えるケースが増えるに伴い、病院側も院内感染を隠すことが出来なくなり、前向きに検討するようになった。
今では、院内感染は起きうるものとの認識の中で、いち早く見つけ出そうと努力する病院が増えている。これらの病院では院内感染対策指針を作成しホームページで公開している。
一般的には、感染対策室、院内感染対策運営委員会等を設置し、院内感染防止のために「院内感染防止マニュアル」を作成する。委員会は例えば委員長を院長が務め、各診療科の部長、看護部長、薬剤部長などの委員に、必ず感染症に詳しい臨床検査担当者が委員として加わる。

病院では以前と違い、院内感染は必ず起きうるとの認識は定着したように思われる。学校もいじめは必ず起きうるとの認識を早く定着させるべきと思う。いじめの有る学校が恥ではない。むしろそれを隠すことが恥なのである。反対にいじめを見つけ出すことが奨励される風潮が望まれる。
そのために病院における院内感染防止委員会と同様に、いじめ防止委員会を各学校に設置し、いじめ防止マニュアルを作成すべきと思う。委員会にはいじめ防止の教育を受けた専門者を必ず加えるべきであろう。
院内感染の防止のためには委員会だけが頑張れば良いのではない。全職員が協力しなければ院内感染は防止できないと言われている。学校も同様に全職員が協力しなければいじめは防止できないであろう。
いじめは学校だけの問題ではない。大人の社会でも起きている。パワーハラスメントもその一つである。それらは時には罰せられる時代になったが、いじめはどこにもあることなので、いじめに強くなる教育も一方で必要なのではないだろうか。

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Yucca(ユッカ)

2012-08-19 21:01:51 | 日記
8月19日(日)晴れ

新潟古町の書店の万松堂を出ると、誰かの歌声が聞こえてきた。
Yucca(ユッカ)が路上ライブをしていた。カメラを持ってなかったので、携帯で撮った。

相変わらずの美声である。立ったまま聴いていた。終わってからTシャツを販売するとのことで1枚購入し、サインを入れてもらった。


Yuccaを知ったのは四年ほど前のことである。古町を横切ったとき、すごい歌声が聞こえてきた。まさに凄い高音が楽器のように聞こえた。思わず歌声のところまで行くと、一人の女性が路上ライブをしており、多くの人が聴き入っていた。その人がYuccaであった。

後から知ったが、その時の歌は歌劇「魔笛」の中の「夜の女王のアリア」であった。後にこの歌声はテレビで流れた。トヨタのアルファードのCMである。
Yuccaは東京音楽大学を出た、コロラトゥーラ・ソプラノ歌手で3オクターブ以上の広い音域の発声が特徴とのこと。
それまでこれだけ高音を聴いたことはなかったので、聴いたときはとても感動したものだ。
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ジンギスカン

2012-08-16 18:51:22 | 日記
8月16日 晴れ

昨日、長女夫婦がやってきたので、ジンギスカンパーティをした。ジンギスカンは先日札幌に行った帰りに千歳空港で松尾ジンギスカンを買ってきておいた。
北海道に住んでいたときは、ジンギスカンを良く食べた。食べるときは外で、ゴザを敷き、七輪にジンギスカン鍋を載せて、ジュージューと焼いた。ジンギスカンを焼くと煙と臭いが大変なので外で食べるのが普通であった。しかし、新潟の我が家では、そのような庭もなく、室内で行うことになる。窓を開け、台所の換気扇を回して煙を逃がしながら焼いた。4人で1.5キロのジンギスカンをたいらげた。
窓を開けておいたせいか、今朝起きたときにはそれほど臭いは残っていなかった。
娘夫婦は久しぶりの休暇を越後湯沢の温泉で過ごすために、今朝出かけて行った。

我々夫婦は、平等寺の薬師堂にお参りに行くことにした。

昼食は近くにある三川きのこ園でとることにした。ここではバーベキューを食べることが出来るが、二人だけでバーベキューを食べる気も起きず、私は「きのこざるそば」を食べることにした。家内は「きのこご飯」と「きのこ汁」を頼んだ。

「きのこざるそば」とはどのようなそばかと思ったら、ざるそばに舞茸が一片載っているだけのものだった。
帰りに道の駅ジパングに寄って、いつも買う小女子の佃煮を買った。
我家に着くと、ハマナスの花が一つだけ咲いていた。

今年は6月にいつもの年より多くの花を咲かせ、花は終わったと思ったが、またポツポツと咲かせている。
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ロンドンオリンピック終る

2012-08-14 20:51:24 | 日記
8月14日(火) 曇り時々雨

ロンドンオリンピックが終了した。日本はメダル38個と過去最高だった。
開会式の入場行進で人口35000人の国で二名の選手が参加していたのが、印象的であったが、調べてみると、その国はリヒテンシュタインであった。
さらに調べてみると、スイスとオーストリアに挟まれた日本の小豆島とほぼ同じ面積の国である。国旗は以下の様。

選手は二名と思っていたら三名で、男子マラソン(一名)と女子競泳(二名)に参加したが、メダルには至らなかった。
しかし、このような小さな国からもオリンピックに参加することこそが、本来のオリンピックの意義なのであろう。

退職して時間があったためか、今年ほどオリンピック中継を見たことはなかったように思う。今まであまり興味のなかったが、レスリングの一瞬のタックルにスリルがあり、結構面白かった。
オリンピックでメダルを取るには、我々が想像も出来ないほどの練習と努力が必要だろう。100分の1秒の差でメダルを逃す競技もある。そのような中で語られる選手の言葉は心を打つものがある。日本選手の中でもオリンピック前から金メダルを取って当然というような態度の人もいたが、反対に謙虚な人も多かった。
特に印象に残った人が二人いる。競泳の北島康介とボクシングの村田諒太である。
北島は三連覇を言われながらも個人でのメダルは取れなかった。彼の今回のオリンピックまでの4年間はコーチなしの練習を自ら選択したが、思うところがあったのであろう。今回の結果も覚悟の上の選択だったのではないかと思う。
彼は競技後に「うまく行かないのも楽しい」と言った。彼は達観しているのだと思った。まさに日日是好日なのだ。
もう一人はボクシングの村田諒太である。彼は10代の頃は、かなりやんちゃだったようだが、彼は日本人では無理だと言われていたミドル級で金メダルを取った。その後彼は「金メダルは僕の価値ではない。これからの人生が僕の価値になる。(金メダルに)恥ずかしくないように生きてゆく」と言った。これが一流の証なのであろう。
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征さんの死

2012-08-07 21:21:02 | 日記
8月7日 曇り一時雨

8月3日に札幌に住む征さんが亡くなった。満88歳だった。お酒の大好きな人だった。それにも増して人情深く、北海道の「寅さん」であった。
通夜と告別式は札幌で行われたが、大勢の人が参列した。私も札幌へ駆けつけた。
北海道では通夜のあと、近親者は葬儀の行われる会館でお酒と食事を取りながら故人を偲び、そこに泊まるのが一般的の様である。今回、我々もそうした。

征さんは大正13年に樺太に生まれ、私の母とは従姉弟に当たるが、樺太では姉弟のように育った。
網走で一人暮らしをしていた母が私のところに住むようになったとき、母を心配していた征さんは、電話をしてきて「良かった、良かった」と、とても喜んでくれた。
今回母の名前で献花させてもらった。
征さんは子供の頃、体が弱く佐渡や静岡で静養し、東京の旧制中学に入った。そこでは陸上のリーダーとして活躍したと聞いている。質実剛毅を旨とする校風がその後の征さんの生き方に大きな影響を与えたのではないかと思われる。
征さんは戦争にも行った。その時受けた弾丸の痕がいくつも体に残っていたそうである。
その後、縁あって結婚し、二人の男児と一人の女児を儲けた。
その後のエピソードは数知れない。特にお酒をこよなく愛した征さんのエピソードは多い。
子供の運動会には必ずやって来て、走路のコーナーに陣取り、一升瓶を片手に子供の名前を叫んで「ガンバレー」と応援されるのが、子供たちは恥ずかしかったと述壊している。
網走には毎年やって来て母の兄妹たちに会い、お酒を飲みながら語りあい、みんなを爆笑させて帰ってゆくのを何回も聞いた。網走では大の人気者であった。
私も大学に入り網走に帰省するときは、征さんの家に立ち寄り泊めてもらったりもした。そのときは、チャンチャン焼きやジンギスカンで歓待してくれた。
忘れられないのは、私の結婚式のときの出来事である。私は新潟で結婚式を挙げたが、そのとき征さんは札幌からやってきてくれた。昭和48年のことである。
征さんは我々二人を祝福してくれ無事披露宴も終わり、電車で札幌に帰って行った。その後我々はお世話になった人に挨拶して家内の実家に戻ると征さんはそこにいてお酒を飲んでいた。どうしたのか聞くと、どうもお酒を飲んだこともあり、新潟駅のベンチで寝てしまったようで、目を覚ますと既に乗るはずの電車は行ってしまっていた。駅員にその電車を呼び戻すように言ったが駄目だったと笑って、またお酒を飲んでいた。お酒にまつわる武勇伝はまだ沢山あるが、このくらいにしておこう。
しかしお酒は征さんの一面でしかない。征さんは会社でも重要な地位にいて、皆と一緒に喜んだり、泣いたりしてくれた。それ故、多くの人の心を惹きつけ、征さんが仲人をしたカップルは30組を超えている。
私が最後に征さんに会ったのは3年前である。会社の出張で札幌に行った際に征さんを訪ねた。その時も「今日は嬉しい。お酒を出してくれ」と長男のお嫁さんに言って飲んでいた。
征さんは自叙伝を書き始めていたそうだが、途中になっているそうである。ぜひ子供さんたちで完成させていただきたいものである。
征さんのような生き方はまねしようにも、出来るものではないが、学ぶところは多い。
今頃数年前に亡くなられた奥様にお会いしているであろう。ご冥福をお祈りします。
葬儀の様子を母に報告する助けにと、何枚かの写真を撮った。その数枚にオーブのようなものが幾つも写っていた。これは何を意味するのであろう。

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