・食前酒を喫茶店で飲んでおしゃべりをたのしむ。
ピガール広場近く、そんな店へ行ったら、
コーラの広告のある、日本の観光地の売店のような店、
カウンターに五、六人の労働者風の男が立って、
グラスを前に、しきりにしゃべっていた。
キールという食前酒なんか、飲むそうである。
私はリカーを飲んだ。
ちょっと変な味で、
木の皮を煎じたような、アブサンめいた強烈な味、
しかし、食後にいいかもしれない。
胃の働きがにぶっているのを、
引き締めてくれるかもわからない。
しかし、食前に飲むと、
眠っていた胃がめざめて、
シャンとするかもしれない。
食欲を刺戟し、
舌を敏感にしてくれるかもしれない。
要するに私にとっては、
いつ飲んでもいい酒なのであって、
二杯目、三杯目と飲むほどに、
「いいんじゃないでしょうか、これは」
ということになってしまう。
「よくない酒、
というのが今までありましたか?」
とおっちゃんにいわれてしまう。
全く、味覚に無節操な私は、
どんな酒をもってこられても美酒に思われ、
「いいんじゃないでしょうか、これ」
になってしまう。
それでも私にも、困る酒があって、
それは例のやつ、甘口の日本酒、
ドンゴロスの砂糖を何袋も投げこんだような、
ねとつく日本酒である。
盃も指もネトネトして、
胸がもたれてしまう。
そこへくると、
ヴェニスで試みたグラッパーといい、
リカーといい、一滴よく心気を爽快にし、
鬱を散ずる零酒であって、
まことに男らしい酒である。
ムッシュ・フランソワーズが連れて行ってくれた所は、
結局、ベトナム料理であった。
わりに安くて、そして東洋風なのが、
いまパリっ子の新しがり屋に受けていて、
はやってる店だそうである。
美青年が主人(マスター)で、
ムッシュ・フランソワーズの友達だそうである。
マスターの妻はベトナム人で、
もう九時すぎの時刻だったから、
夫人は自宅へ帰るらしく、
店を横切って出て行った。
親子連れ、カップルなどが来ていて、
家庭的な店である。
中国風の幟や、宮燈が下がっていて、
ベトナムというより華僑風、
シンガポールの中国料理のようである。
ここで食べたものをご紹介したいのだが、
残念ながら忘れてしまった。
麺類のスープ、
ワンタンメンのごときもの、
何だか炒め物、
といったものが出て、
それはかなり美味しいのであるが、
というのは、舌に馴れた味であって、
とりたてて、おぼえようというほどのものではないので、
何もひっかからずに、
品名さえ忘れてしまった。
暖かくて美味しかったので、
けっこうでした、ということで店を出た。
ベトナム妻が帰ったあと、
マスター一人が店をやっていて、
何だか馴れずに、
マゴマゴしている素人くさい印象で、
なかなかよかった。
ベトナム妻といえば、
パリにはベトナム人も多いそうだ。
パリには「外人」が多く住みついている。
パリというと、
私など「ベルばら」を思い、
フランス映画を思い、
粋なフランス人男女が、
セーヌ河畔を手を携えて逍遥している姿を、
思い浮かべずにはいられないのであるが、
現実には、種々雑多な人種のるつぼであって、
いや、日本人もゴロゴロ、
パリは生きやすいのであるらしい。