「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

5、パリ ③

2022年10月04日 08時53分46秒 | 田辺聖子・エッセー集










・日本のホテルなら、
タクシーは乗りやすいが、
パリではタクシーは実につかまえにくい。

まだ春は浅いので、パリの風は冷たく、
アメリカ人観光客は毛皮を着ている。

吹きっさらしのホテルの前で何十分も待って行列してるが、
タクシーはなかなか来ない。

街を流しているタクシーもつかまえにくい。

たまに停まってくれたかと思うと、
横の座席に犬を乗せていて、
うしろにせいぜい二人、
それ以上乗ろうとすると、
「ノン」といわれてしまう。

日本のタクシーみたいに、
横へ二人、うしろへ三人、なんて乗せてくれない。

ホテルはマイヨー門のちかくで、
メトロの駅もつい、そこであるから、
タクシー乗り場でしびれを切らして、
とうとう地下鉄に乗る、
といったこともたびたびである。

ロンドンの地下鉄もわかりやすいが、
パリもそうむつかしくなく、
早くてずっとよい。

それで、案内役の青年が連れ歩いてくれる時は、
よくメトロを使った。

彼は日本からパリへ勉強に来て、
「ミイラ取りがミイラになった」そうである。

フランス女性と結婚したばかりで、
「うちのフランソワーズが、うちのフランソワーズが」
と口ぐせにいう、やさしい好青年である。

ムッシュ・フランソワーズは、
私たちがパリの赤提灯を探索したいというと、
少し困惑気味であった。

そういうのに該当するところは考えつかない、
というのだ。

「屋台はおまへんか、
こう、カキを割ってすぐ手づかみで食べられる、
というのを写真で見ましたが」

カモカのおっちゃんは熱心にいう。

四月の声を聞くと、カキは少し遅く、
「屋台、屋台ねえ・・・」
ムッシュ・フランソワーズは必死に考え込む。

彼の話では、
ギリシャ料理とかアルジェリア料理とか、
そういう店に、そんな感じの店が多いということである。

私は、
「フランス料理を食べさせる安い店」
と注文したのだ。

労働者がふだん食べている料理と、
ワインで以て安直に食べられる、
そんなところを想像したのであった。

そういう私の頭にあるのは、
国道沿いの大衆食堂、
運転手の行くような店、
いうならフランス映画『ヘッドライト』に出てくる、
運転手の行く安食堂である。

日本にも、
長距離トラック運転手向きの食堂があるが、
べつにそれでなくても下町には、
安直な食堂がある。

私の家の近くの伊丹市場の中のうどん屋も、
市場従業員や、近くの労働者にとって、
たいへん便利な店である。

うどんそばの類はもちろん、
どんぶり物から、味噌汁、おかず、
漬物のたぐいまでそろっている。

そうして、おかずはガラスケースに一皿ごと入れられて、
しめさば、塩さんまの焼いたの、トンカツ、煮魚、
いわしのフライ、なんかが並んでいて、
好きなのを指して取ってもらうことが出来る。

トマトを輪切りにした一皿、
大根おろしにちりめんじゃこをかけた一皿、
漬物の一皿、
などという、日本料理が並んでいて、
何を見ても美味しくみえる。

ごはんは大盛り、中盛り、小盛り、とあり、
二百円もあれば、バランスのとれた昼食が出来る店。

夜はそこで安い酒やビールが飲める。

雨が降るとか休みの日は、
朝からおっさんが、焼肉なんかでビールを飲んでいる。

そうして赤い顔をして、

「休み、ちゅうのは、
何してええか、わからんもんやな」

とおかみさんに話しかけたりし、
おかみさんも忙しいからろくに返事もしない。

おっさんは一人でしゃべり、
一人で返事して、合間に一人で笑い、
誰かに相手になってもらいたそうに、
ぐるりを見わたす、そういう店である。

そういう店が日本の都会の下町には必ずある、
そういうところを見たいのであるが、
そんなややこしいのはパリにはないらしい。

むしろそういうのに当る店は、
「喫茶店になります」ということであった。






          


(次回へ)

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