むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「20」 ⑤

2024年11月30日 08時51分55秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・そんなところへお使者が来た

「早く出仕せよ」

という中宮の宣旨を、
伝えて来たのである

ついでに見事な白い紙が二十枚、
うず高く積み上げられていた

上質のやわらかい光を吸い込んで、
早春の香りを運びこんだような、
すばらしい紙

たっぷりと墨を吸い込みそうな、
思うことがすらすら書けそうな、
極上の紙

「わっ、どうしたの、これ・・・」

私、明けて三十三である

しかし、紙や筆のいいのを見ると、
抑えきれない歓声があがるのだ

着物も飾り物も好きだけれど、
紙も大好き

「宮さまの下されもので、
ございますよ」

と台盤所の雑仕はいう

そういえばいつか、
中宮に申し上げたことがあった

(世の中がいやになって、
生きてる気もしないときでも、
気がむしゃくしゃしているときでも、
いい紙や良い筆が手に入ると、
幸福な気分になって、
いっぺんに機嫌がなおってしまいます)

なんて

それを覚えていて下さったに、
違いない

こんなにたくさんの、
いい紙を必要としないけれど、
中宮はあのときのことを、

(ひやかしていられるんだわ)

と思うと嬉しいやら、
光栄な気持ちやらで、
胸が熱くなってきた

私自身忘れていたのに、
中宮が覚えていて下さった、
なんて

中宮がわざわざ私のために、
こんなにお心を、
遣って下さるなんて、
勿体ないといおうか、
光栄といおうか

どうお返事を申し上げていいか、
うろるろする気持ちだったが、
とりあえず、

<かけまくも
かしこきかみの験(しるし)には
鶴の齢となりぬべきかな>

(勿体ない
頂きました紙のおかげで、
私は千年も命が延びそうで、
ございます)

紙と神をかけたつもりで、
中宮なら則光とはちがう、
わかって下さるであろう

お使いの雑仕女には、
お祝儀に青い綾の単衣をやって、
帰らせた

そのあと、
私は夢中で小雪や古女房をたちを、
相手に紙を切って折り、
冊子を作るのにかかっていた

(中宮さまに頂いた紙)

と思うだけで心躍る

(ここに書こう
あの方の輝かしい日々を
この紙に書きとどめよう)

と思う

今はまだ下書きを書き散らし、
書きためている段階だけれど、
いつかはこの美しい紙に、
清書して中宮にさし出そう

(たのしいこと
美しいこと
心おどることだけを、
書きとどめればいいんだわ
悲しいことなんか、
書く値打ちはないわ)

と弁のおもとはいった

あの方に、
輝かしい記録を捧げよう
いつかは・・・

そうして私は思うのだ

中宮は私の「春はあけぼの草子」が、
完成するのを待っていらっしゃる

早く読みたいと、
思っていらっしゃる

書き手と読み手が、
めでたく心を通わせあった、
この幸福

しかも、
その幸福はそればかりでは、
なかった

二日ほどたって、
赤い衣を着た下人たちが何人か、

「ごめんください、
これをお持ちしました」

と畳表を持ってきた

それがずんずん中庭まで、
持って入るのだから、

「失礼じゃない、
勝手に入り込んで」

と侍女たちが怒ると、
まごまごして、

「じゃ、ここに置きます」

と縁に放り投げて、
帰っていった

「どこからなの?」

と私がいうと、

「それが何もいわずに、
置いていくんでございます」

と侍女はいう

取り入れさせて見ると、
これはまた、
上等の御座である

い草が匂うような、
青々しい畳表に、
高麗縁が清らかで、
私ははっとした

(これも中宮さまだわ・・・)

そうだった

いつぞや中宮に、
いい紙と畳表の新しいのを、
見ていると嬉しくて、
と申しあげたのだ

それも高麗縁の畳表など、
見ていると、

(やっぱりこの世の中って、
生きて甲斐ある世なんだわ
捨てたものじゃないわ)

と心が慰められて、
命まで惜しくなってくる、
と申しあげると、
中宮は、

「変った人だこと」

とお笑いになり、
おそばの女房たちに、

(紙や畳表で、
命を取り止めるなんて、
安上がりなおまじないね)

と笑われたっけ

急いで下人たちを追わせたが、
もう姿は見えなかった

それでいっぺんに里心が、
ついてしまった

私の里心は、
じつに中宮さまのおそば、
なのだった

こんなところで、
一人いても仕方がない、

去った者は去ったのだ
則光は何年かたたなければ、
帰らないのだ

そろそろ出仕しようかと、
思っていると、

「今夜は方違えです」

ということで、
やむなくほんの少しの、
知り人の家へ寄らせてもらう

もてなしの悪い家で、
そうそうにわが家へ引きあげたが、
気が滅入るほどの寒さだった

やっとの思いで、
居間へ入って火桶を、
引き寄せかじりつく

(一人ぼっちなんだわ)

としみじみ思う

いつぞや兄の致信が、

(弁のおもとの、
死にざまを見ろ)

といったが、
いくら派手なところに、
お仕えしていても、
里下りしてみれば、
一人きり、
寒さでがくがくしているざまで、
いるなんて

「炭を埋けてございますよ」

と小雪がいってくれる

火箸で細かい灰を、
掘り起こすと、
赤々とした大きな炭の、
よくおこったのが、
いくつも出てきていっぺんに、
くわっと熱くなり、

「おお暖かい・・・
生き返ったようだわ」

「お早く、
おやすみなさいませ
甘ずらの湯をお持ちしました」

古女房の左近がいう

左近はもともと、
父に仕えていた女房だが、
この三条の邸に住みついて、
ここの留守番役とも、
なっている

死ぬまでここに、
いてくれるだろう

もう六十過ぎていて、
夫も子もなかった






          


(次回へ)

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