「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

7、葵 ⑥

2023年08月25日 08時39分07秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・御息所は、
葵の上のご安産という噂を聞いて、
心がおだやかではなかった。

(一時は危篤、
と伝えられたのに・・・)

と思うのも、
われながらうとましい心の動きだった。

われながら、
自分の身があさましくなってくる。

人に言えることではないので、
心一つにおさめておくと、
よけい胸は乱れるのであった。

源氏はやや気持ちがおさまってから、
恐ろしかった御息所の生霊のことを、
思い返していた。

あの時のぞっとするうとましさを、
今後、あの女と会っている時にも、
思い出さずにはいられないだろう。

そう思うと、
今、あの女に会うのはためらわれた。

源氏の心には御息所への愛が、
まだためらいがちに残っていて、
御息所を悪く思いたくないのであった。

訪れは間遠になるが、
源氏は御息所の誇りと対面を重んじて、
手紙だけは送り続けた。

重態だった葵の上は、
出産が無事に終わった今も、
油断はできない様子であった。

父の左大臣も母宮も心配そうなので、
源氏も外出はせず、
左大臣邸にこもりきりになっている。

葵の上は、
やつれて病に悩み臥しているので、
源氏を避けて病室にこもりきりになっている。

源氏は生れ出た小さな命に感動して、
可愛くも珍しくも思い、
大切にしていた。

この上は葵の上の回復だけが待たれるが、
何といってもあれほどの重病だったのだから、
快癒するには日もかかるだろうと、
父大臣は思っていられた。

源氏はみな人の夕霧と呼ぶ小さな若君が、
東宮に似ているのを、
ひそかに認めていた。

そう思うと東宮恋しさで胸は熱くなる。

藤壺の宮の面影を宿された東宮は、
今はおん年四歳の可愛いさかりで、
源氏はひそかな愛着を寄せている。

夕霧と東宮は美しい目もとがそっくりである。

久しぶりに東宮にお目にかかりたいという気持ちが、
募ってきた。

源氏は病室へゆき、

「御所にもここしばらく参内しないので、
気がかりだから、
今日はじめて出てみようと思うが・・・」

と物越しに葵の上にいった。

「そばへ寄って話がしたい」

というと、女房たちも、

「ほんとにそうでございます。
ご夫婦の仲ではございませんか」

と源氏を、葵の上の臥しているそばへ案内する。

「ひとときはあなたを失うかと、
胸がつぶれそうだったが、
こうやって元気なあなたを見ると、
奇蹟のようだ」

源氏は妻の手をとりやさしくいった。

「何も覚えていません・・・
ただ、たいそう息苦しかったのだけが・・・」

葵の上はいうが、
あのとき、一瞬、息絶えたかにみえた妻が、
みるみる御息所に変貌していった恐ろしさが、
源氏には思い出され、
話を転じた。

「いろいろ話したいことがあるが、
まだ大儀そうだね。
しかしもう、危機は脱したのだから大丈夫だ」

源氏は手ずから薬湯をささげて、
夫らしい心づかいを見せて、
病妻の介抱をする。

女房たちは源氏のやさしさを、
しみじみあわれ深く思った。

「院などへ参って、
すぐ退出してくるからね」

源氏が妻にささやくと、
葵の上はほほえんだ。

「早くよくなっておくれ。
いま、はじめてあなたと結婚した気がする」

「ええ、早くなおるようにしますわ」

「病気になったことで、
かえってよかったのかもしれないね。
私たちの仲にとっては・・・」

源氏は清らかに装束をととのえて出てゆく。

源氏がふり返ってうなずくと、
妻は寝たまま、
視線をあてて、

「いってらっしゃいまし」

といった。

それは源氏が耳にした女の声のうちで、
もっとも深いやさしい声だった。

この日は秋の恒例の、
司召(つかさめし 官吏任免の評議)
がある日であった。

父の左大臣も参内し、
子息たちも望んでいる官職を得んがために、
左大臣のそばにいたから、
みな宮中へつめていた。

会議もはじまらぬ間に、
あわただしい使いが来た。

葵の上が危篤になったというのだ。

追いかけて、

「ただいま、お亡くなりになりました」

という知らせだった。

誰もかれも、
足を空に御所から退出した。

源氏は悪夢を見ている心地がする。






          


(次回へ)

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