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・御息所は、
葵の上のご安産という噂を聞いて、
心がおだやかではなかった。
(一時は危篤、
と伝えられたのに・・・)
と思うのも、
われながらうとましい心の動きだった。
われながら、
自分の身があさましくなってくる。
人に言えることではないので、
心一つにおさめておくと、
よけい胸は乱れるのであった。
源氏はやや気持ちがおさまってから、
恐ろしかった御息所の生霊のことを、
思い返していた。
あの時のぞっとするうとましさを、
今後、あの女と会っている時にも、
思い出さずにはいられないだろう。
そう思うと、
今、あの女に会うのはためらわれた。
源氏の心には御息所への愛が、
まだためらいがちに残っていて、
御息所を悪く思いたくないのであった。
訪れは間遠になるが、
源氏は御息所の誇りと対面を重んじて、
手紙だけは送り続けた。
重態だった葵の上は、
出産が無事に終わった今も、
油断はできない様子であった。
父の左大臣も母宮も心配そうなので、
源氏も外出はせず、
左大臣邸にこもりきりになっている。
葵の上は、
やつれて病に悩み臥しているので、
源氏を避けて病室にこもりきりになっている。
源氏は生れ出た小さな命に感動して、
可愛くも珍しくも思い、
大切にしていた。
この上は葵の上の回復だけが待たれるが、
何といってもあれほどの重病だったのだから、
快癒するには日もかかるだろうと、
父大臣は思っていられた。
源氏はみな人の夕霧と呼ぶ小さな若君が、
東宮に似ているのを、
ひそかに認めていた。
そう思うと東宮恋しさで胸は熱くなる。
藤壺の宮の面影を宿された東宮は、
今はおん年四歳の可愛いさかりで、
源氏はひそかな愛着を寄せている。
夕霧と東宮は美しい目もとがそっくりである。
久しぶりに東宮にお目にかかりたいという気持ちが、
募ってきた。
源氏は病室へゆき、
「御所にもここしばらく参内しないので、
気がかりだから、
今日はじめて出てみようと思うが・・・」
と物越しに葵の上にいった。
「そばへ寄って話がしたい」
というと、女房たちも、
「ほんとにそうでございます。
ご夫婦の仲ではございませんか」
と源氏を、葵の上の臥しているそばへ案内する。
「ひとときはあなたを失うかと、
胸がつぶれそうだったが、
こうやって元気なあなたを見ると、
奇蹟のようだ」
源氏は妻の手をとりやさしくいった。
「何も覚えていません・・・
ただ、たいそう息苦しかったのだけが・・・」
葵の上はいうが、
あのとき、一瞬、息絶えたかにみえた妻が、
みるみる御息所に変貌していった恐ろしさが、
源氏には思い出され、
話を転じた。
「いろいろ話したいことがあるが、
まだ大儀そうだね。
しかしもう、危機は脱したのだから大丈夫だ」
源氏は手ずから薬湯をささげて、
夫らしい心づかいを見せて、
病妻の介抱をする。
女房たちは源氏のやさしさを、
しみじみあわれ深く思った。
「院などへ参って、
すぐ退出してくるからね」
源氏が妻にささやくと、
葵の上はほほえんだ。
「早くよくなっておくれ。
いま、はじめてあなたと結婚した気がする」
「ええ、早くなおるようにしますわ」
「病気になったことで、
かえってよかったのかもしれないね。
私たちの仲にとっては・・・」
源氏は清らかに装束をととのえて出てゆく。
源氏がふり返ってうなずくと、
妻は寝たまま、
視線をあてて、
「いってらっしゃいまし」
といった。
それは源氏が耳にした女の声のうちで、
もっとも深いやさしい声だった。
この日は秋の恒例の、
司召(つかさめし 官吏任免の評議)
がある日であった。
父の左大臣も参内し、
子息たちも望んでいる官職を得んがために、
左大臣のそばにいたから、
みな宮中へつめていた。
会議もはじまらぬ間に、
あわただしい使いが来た。
葵の上が危篤になったというのだ。
追いかけて、
「ただいま、お亡くなりになりました」
という知らせだった。
誰もかれも、
足を空に御所から退出した。
源氏は悪夢を見ている心地がする。
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(次回へ)