むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「19」 ⑤

2024年11月25日 09時00分52秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・主上(一条帝)は、
もう一刻でも離すまいと、
なさるかのように、
夜はひしと定子中宮のおそばに、
いられる

もうほかの女御たちのことは、
思い出されることもない、
ありさまだった

そこへ吉報がもたらされた

帝の母君、女院が、
ご病気になられ、
平癒祈願のため、
大赦が行われて、
伊周(これちか)の君と、
隆家の君にお許しが出たのだ

召喚の命令が発せられた

姫宮は幸運を運んでこられた

姫宮がお生まれになってから、
中宮のご身辺には、
次々とよいことが続く

私は次に則光に会ったとき、
自慢せずにはいられない

「隆家の君がお帰りになる、
というのでずいぶんたくさんの人が、
配所までお迎えに上がったそうね
伊周の君は、
九州のはやり病が、
少しおさまってから、
お戻りになるらしい・・・
中宮が元に倍して、
ご寵愛が深いと知れたら、
どんなにお喜びになることか」

「・・・」

則光は口が重い

「どうかしたの?」

「どうもしない
ただこのごろ何となく・・・
疲れたよ」

「仕事が忙しいの?」

「そうでもないが、
昔のようにここへ来て、
骨休めできなくなった
お前はいつも、
『中宮さま』
のことで頭がいっぱいだし、
疲れがよけい重なる気がする
おれは淋しい」

今夜の則光は、
いつかのように怒らない
静かにいう

怒らない則光は、
それはそれで私を当惑させた

「どうしろっていうの?」

「あたまの悪いおれには、
どうしたらいいかというのは、
口に出していえない
口にできない何かがあったんだ、
お前のまわりには
おれはそれが魅力だった
お前のおしゃべりも楽しかったし、
宮中で再会したときは、
なつかしかった
お前を昔のように、
家にとじこめておけない、
というのはわかってる
お前はそんな女じゃない
たくさんの人にもてはやされ、
人に目だったり、
楽しませたりして、
生きていく女だからな
だけど、
おれと二人きりのときまで、
お前のあたまは、
『中宮さま』でいっぱいだ」

「・・・」

「おれはここで、
楽しめなくなった」

今度は私が黙る番だった

「おれ、
今までしこたま考えたんだが、
来年の除目で何とか、
どこかへくらいついて、
いけそうなんだ
左大臣家(道長の君)の手づるで
ほら致信(むねのぶ)さんが、
口を利いてくれた
どこの国になるかわからないが、
お前も来ないか
国の守になれるかもしれない」

「あたしが、なぜ?」

私はびっくりせずにいられない

「面白いじゃないか
生まれて初めての景色を見られて」

「あんたは家族を連れて、
行くのでしょう」

「連れてゆくが、
それとこれは別だ
お前、一、二年ぐらい、
遊んでみるがいいよ
お前は昔、
外へ出るのをあんなに、
喜んでいたじゃないか
どこの国でもいい、
しばらくおれについて来ないか」

「とんでもない」

「飽きたら帰ってくればいい
お前を束縛しようとは、
思わない
しかしこのまま京にいると、
気の休まるときとて、
ないに決まってる」

「どこの国へ行くつもり?」

と私が聞いたのは、
則光に同行する気持ちからではなく、
単なる好奇心だった

私は中宮を置いて、
どこへ行けるものかと、
思っていた

則光の顔はにわかに、
生彩を帯びる

「全く、
この都と変ったところがいい
東国へ行きたい
野っ原を馬で駆けて、
狩りをしてみたい
都びとと全く違う人間と、
親しんだり、
一緒に仕事をしてみたい
土の匂いを嗅ぎ、
川の水をすくって飲みたい
雪も嵐も恐れない、
そういう暮らしをしてみたい、
とお前も思わんか」

則光のいうことは、
よくわかった

ほんとのところ、
体が二つあればいい

一つは則光とよその国へ
一つは中宮のおそばに

「あたし、
そうしたい、
あんたと一緒に行きたい
でも・・・」

「おっと、
その先は言わなくていい
もうわかってるよ
お前の言いたいこと
でも、ちょっと言ってみただけ
言わなかったら、
おれの気持ちわかってもらえなくて、
埋もれてしまうだろうからね
お前は所詮、
都から離れられない人間だし」

「・・・」

「お前は人のちやほやが、
なくては生きられない女さ
ほめられ、おだてられ、
乗せられて」

たちまち私はカッとする

「あんたにゃ、
わからない世界なんだわ
あたしがどんな面白いことを、
いっても通じない人なんだから」

「そういう思いが、
この年になったおれには、
堪えられなくなったんだ」

「じゃあ、
別れるしかないわね」

「お前がそういうなら、
仕方ないよ」

則光は、
たちまち私にとって、
憎らしい男に転じてしまう

「もう呼んでも来ないからな」

「あたしも当分、
ここへは戻らない
中宮さまが内裏住みなされば、
ずっとあちらにいることに、
なるでしょうから」

則光は怒っているのではない
淋しい、というのは、
本当かもしれない

しかし所詮男心はわからない

しかし私はそのことを、
ゆっくり考えるひまはなかった

隆家の君が、
とうとう戻っていらした

この中宮の弟君は、
但馬から動かず謹慎していられた、
ということで、
左大臣家からの評判もよく、
中宮とお目通りなさって、
姫宮とご対面なるにつけても、
涙、涙、うれし涙であった

「これで早く兄上が、
戻られたら」

と欲が出るのも喜ばしかった

隆家の君は、
日に焼けて体つきも、
たくましくなって戻られた

私はこんな世界の方が、
やっぱり面白い

則光と荒野の国へ行くよりは、
人の噂や悪口の話に、
いきいきとよみがえる






          


(了)

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